小説の設定をベースに過去捏造。平気な方のみどうぞ↓

































此れから己の為す事に、然して意味は無い。

為らば何故進むのか、と問われても
答えと為る言葉を、己は持ち合わせていない。
唯、歩む為の足と、身体を動かすに足る血液の流れと、
微かな、だが其れ等を伴って尚湧き上がる確信を
抑えるだけの意思も、今の己には無い。
此の行為は、彼等にとって、
そして己自身にも、何かを生み出す事も、変える事も
真実の意味では、無い。
其れでも、此の足は止まる事を知らず、
血液も留まる事無く流れ続けるのだから、

ともすれば、此の世は遍く寛容で、時に不毛の影を落とす。








水の滴る音が、心地良くも、煩わしくも無く、耳へと落ちる。
貪欲に音と云う音を吸収し続ける鼓膜は、脳味噌を経る事に因って
必要の無い物を選別し、濾す事で膨大な音の波を遮ると云うのに
脳との関わりを断たれたか様に、取り入れた音が全身に迄反響し、
痺れる様な感覚が、却って己の視界を広げている。
覚えの有る感覚であった。研ぎ澄まされる、と一言で云ってしまえば其れ迄だが、
奇妙な程に懐かしい。
華やかに彩られた廊下を、ぽたりぽたり、と雫を連れて歩く。
全身濡鼠の様相を呈する己は、此の場にはさぞ滑稽であろう。
時折擦れ違う下女達の訝しむ声や、護衛衆の此方を制する槍を幾度と無く眼にしたが、
其れ等を押し退け、其れでも歩き続ける足に、
半ば引き摺られる様にして奥へ、奥へと進んで往く。
何時しか、其れまで美しく飾り立てられていた柱や、
人々の気配は形を潜める様に為り、同時に眼に映る色彩も変化した。
美しい、とは思える。柔らかな灯篭の灯りと、白磁色の壁の調和は
御前の邸の極彩色を思えば、質素とも取れるが、
凛然と続く廊下の隅々まで人の手が往届き、白く輝いている。
だが、触れれば凍えてしまう様な白は、美しさと引き換えに
人を寄せ付けぬ高潔さと、隔絶された息苦しさを宿している。
此処は、既に完成された空間であった。
先に進む事も、後退る事も無い。何者の手も必要とせず、
全ての流れから逸脱し、場を満たす空気すら出口を知らずに淀んで、
袋小路ばかりの迷路を惑い続けている様に思えた。
己は今、此の場に立っているか。
足は確かに、地を踏んでいるか。
如何にか確かめようにも、酷く耳鳴りがする。

此処に、居ては、いけない。

此の場の放つ気配は、尋常では無い。頭が、割れる様だ。
此れは、心だ。壁にも、床にも、練り込まれた此の場の主の
白く、酷く赤裸々な意思の漏洩であった。
絡み付き、囚われ掛ける己の心が、耳鳴りと為って不快な警鐘を鳴らし続けている。
介入を拒絶する白色の重圧に膝が折れそうに為るが、
唐突に眼前に現れた襖に意識を向ける事で、
歩き続けた足を漸く休め、足の裏の感触を確かめた。
引き分けの源氏襖は、特別珍しい物でも無かったが、
縁と組子細工の美しい木目を覆う様に塗られた白は
壁の色と同化し、他に襖は無く、此処が邸の最奥である事は
見て取れるが、余りに白く、燭の揺らめきの助け無くば一瞬壁と見紛う程であった。
襖の奥に人の気配を確かに感じはするものの、元より命の温もりの無い場であり、
別段変る事は無く、其れでいて心細さは尚一層深まるのであった。
職人の業の冴えを想わせる千本格子の奥には何が有るのか、
深淵でしか無い様に思える。
けれど身体は正直な物で、最も蟠る心を晴らす事のみに促され、身体の血の巡る侭に、
引手に掛かる濡れた指を眺める裡、思いの外静まって往く心が、
己の本心なのでは無いか、と、此の先に待つであろう張り詰める空気を思えば、
不謹慎此の上無いと、苦笑すら浮かべ、襖を引いた。




「此れは。斯様な刻限に、何事ですかな。」

白い襖を引いた先には、更に白い空間が続いていた。
壁、天井、装飾に至る迄、透き通る様な白。
此れが行灯の灯りの下であったのなら、淡く照らし出された部屋に
様々な影が落ち、火の揺らぐ度に、全てが確かに存在を主張し得たのであろうが
蓄電筒の齎す眩い光は、其れすらも許さぬと云う様に
煌々と白い部屋を照らし出している。
流石の部屋の主も、畳には妥協したのか、見知った其れであったが、
色は薄く、掠れ果てた涅色が壁と程良い均衡を生み出している。
人一人が寝起きし、生活するには広すぎる此の部屋は
其れでも幾つも有る私室の一つなのであろう。
畳の色で辛うじて距離感を測る事は出来るが、
部屋の外に在って尚、重力を失い、身体の浮遊する様な曖昧さが、
全体を反射し、影すら薄める白色の世界を一層認識させるまい、としている。
主はと云えば、以前に見た煌びやかな衣とは打って変わり
卯の花を想わせる、光る絹の衣を纏っている。
寝巻きでは無い様であったが、部屋の白さに同調するかの如く纏う衣は、
死に装束を想わせるばかりで、些か気分の良い物では無い。
部屋の奥で書机に向かい、何やら書を認めていた部屋の主、
街の一切を取り仕切る、此の街の差配である男は
此方の様相に驚きもせず、亦此方に眼を向けはするものの、
筆を抓む様にして持つ細い手を休める事もせず、病的な迄に白い姿を晒している。
此方の不躾な来訪等、とうに知らせを受けているのだろう。
此方の目的が何であるかも、恐らく察しは付いているであろうに、
顔色一つ変える事の無い差配に、乾き掛けた掌に薄く汗の滲む感触を覚えた。

「夜分遅くの此の様な振る舞い、詫びのし様も御座いません。
 御待たせした由、真に申し訳無く、
 先程此方の始末が付きました故、
 御暇を申し上げたく、参上した次第。」
「其れでは、」

雨に濡れ、滲んではいるが確かに衣を染める鮮血を見て取り、
筆を休め此方をじっと見詰める眼には、期待と微かに楽しげな色が浮んでいる。

「……後の始末は、差配殿にお任せしても?」
「ええ。ええ。良いですとも。良いですとも。」

静かな風体を装ってはいるが、にこやかに笑みを浮かべる顔には
まるで褒美を貰った童の様に無邪気な喜びが滲み出ている。
釣られる様にして笑みを貼り付けたが、果して笑みと為っていただろうか。

「さあさ、其の様な処に立っておらず、近う来られ。茶の湯でも如何か?」

いそいそと支度を始める差配に、気遣い無用の由を伝えるも、
此方の言葉等、意に介さないとでも云う様に書机の後ろに有る戸棚から
白い急須と湯呑を二つ、そして傍らに置かれた、此れも亦、何で出来ているのか
白い茶釜に沸く湯の湯気とを、楽しげに見遣り、茶筒から葉を取り出して
急須へと入れた。

「では、頂戴致します。ですが、其の前に一つ、御聞きしたい事が御座います。」
「此の部屋は常に人払いをしておる故、こうして自ら湯を沸かしておる。
 此れも亦、楽しみの一つでの。」

白い部屋に吸い込まれる様に立ち昇る湯気は、差配の笑みに掛からぬ限り
其の姿を確かに見る事は出来ない。
湯気の奥に在る狐の様な目の先には、湯を注ぎ、蓋をした急須があるばかりで
此方の言が、本当に其の耳に届いているのか、定かでは無い。

「村で、黒衣を身に纏う集団を眼に致しました。
 聞く処に依ると、其の者等、村人の死体を集めるを生業としているとか。」
「時には茶を点て、季節の移り変わりに想いを馳せ、
 歌なぞ詠む。此れぞ、人生の喜び。然うは思わぬか?」

存分に茶の味の染み込んだ湯を、白い湯呑に注ぎ込む。
此方からは見る事は叶わないが、差配の顔は緩やかに綻んでいるので
濃過ぎず、薄過ぎず、丁度良い具合に仕上がっている事だろう。

「其の様な者が、刀を所持している。護身用ではありますまい。」

「こうしておると、浮世の憂さなぞ、何もかもを忘れていられる。」


差配が湯呑に口を付けた、其の瞬間。

けたたましい音と共に、天井の板が割れた。





まず、天井の欠片と共に降り立った男の、其の異様な姿が眼に焼き付いた。
男は身の丈四尺五寸程、年端の往かぬ童と見紛うばかりのものであったが、
顔に刻まれた年輪から、確かに己より随分と年嵩に見える。
整える事を止めたのはどれ程前になるのか分からぬ程に伸び、
薄汚い、と云うより、一層気味の悪いと表現した方が相応しい黒髪には
所々白髪が混じり、顔面を隠す様に垂れた前髪の奥に、爛々と輝く眼が
ぎょろり、と音を立てでもする様に、此方を見ている。
併し、其の様相を措いても、尚異質な存在感を放っているのは男の左腕だ。
機械の腕であった。其れだけ為らば、別段珍しい事も無い。
だが、男の肩から生える其れは、床に付かんばかりに異様な程に長く、
健常な右の腕と比べても、其の差は歴然とした物であった。
明らかに不釣合いの両腕の異様さに、眼を見開く事すら忘れた。
其の隙に、男が此方に向かって床を蹴り、駆け出した。
右腕に水平に握られた刀を捉え、一拍遅れて刀を抜き放つ。
金属のぶつかり合う甲高い音と、微かに散った火花が視界の隅を流れ
転がる様にして部屋の中へと飛び込んだ。
直ぐ様体勢を立て直し、男へと向き直ると、男は此方に切っ先を向けた侭
ゆっくりと襖を閉めた。

「此方の問いの終わらぬ裡に、何やら物騒な。
 此れでは其方に非の有る事を自ら
 明かしているのと変らぬではありませぬか。」
「ほう。非、とは?」

茶を啜りながら緩やかに話す差配は、先程と変らぬ位置に腰を下ろした侭であり
男との間合いを慎重に取りながら、背後に感じる笑顔の無垢な様は
確かに此の場の主である事を物語っていた。

「あの者達、あれは侍なのですか?」
「然様。戦が終わり、往き場を失いながらも
 己の欲を捨て切れなんだ。哀れな者達よのう。」
「金、か。」

嘗て、北と南に分かれ、空と云う空が戦場と化していた頃。
侍と呼ばれる者達は、総じてどちらかの軍勢に属し
己の軍を勝利へと導くべく、命を賭して戦った。
併し、中には侍と為る事で得られる名誉や財目当てに
戦う意味すら知らず、戦に身を投じる者も少なくは無かった。
ある者は汗水を垂らし、皆で稼いだ金を元手に、
ある者は罪の無い商家へと押し込みをしてでも金を作り
少しでも高みへ、高みへ、と迷走する裡に
血の通う肉体を捨て、心を捨て、冷たい機械の身体を得る。
然うする事で、肥の匂いしかしない生活から脱する事が出来る。然う信じて。
だが、世の仕組みは然う然う上手くは、望む未来を与えてはくれない。
仮令機械の身体と為ろうと、為らずに幾ら功績を立てようと
所詮、侍の世界とは、家柄に依って決まる物だ。
其れは、己自信も重々承知していた、侍の社会の真理であった。

「其の男も、然う云った類の者での。
 腕は確かなのだが、ほれ、誇りなぞと云う物は
 微塵の欠片すら無い。哀れで醜い、屑虫よ。」

其の言葉を合図に、男が間合いを一気に詰めて来た。
体格差は歴然とした物であったが、身体が劣る分、素早さに長けている様で
飢えた鼬の如く跳ね回り、此方の一瞬の隙を突いて刃を繰り出してくる。
汚れていても、確かに此れは戦場を知る者の動き、其の貪欲さを生み出しているのは
背後で長閑に茶を楽しむ男が、眼前にちらつかせている餌だ。

「何故、あの者等に死体を集めさせるのですか。
 流行り病の抑制、等と云うのも建前なのでしょうっ!」

低い丈を利用して、沈む様な体勢から放たれた右切上を防御し、
きりきり、と耳障りな音を立て軋む刃を、柄を握らぬ左手で支える事で
均衡を保つ。不恰好な形をしていても、機械の腕は生身の己より
強い力で圧して来る。此れだけの大きさ為らば、重さは相当な物と為ろう。
だが、其の重さを感じさせぬ身軽さは、偏に男の鍛錬の賜物と云えよう。

「私は最善を尽くしているに過ぎん。
 村の者等にとっても、私にとっても、のう。」
「如何云う事、ですか。」
「何、至極単純な事よ。仮令屑虫に集られる他に能の無い
 腐った肥であろうと、地に撒けば花は咲く、と云う事。」
「…?」

差配の意味深な言葉に、一瞬気が反れた。
男が其れを見逃す筈は無く、右の手は柄を握った侭
がちり、と云う人工物の発する音と共に、凄まじい勢いで
左腕を脳天に向け突き出して来た。
寸での処で左腕を躱すも、指先の猫の爪の様に鋭い部位に頬を裂かれ、微かに鮮血が舞った。
為らば此方も、と片手だけで支えている男の刀から全身の力を抜き、流れる様に
刃を弾いて打って出ようとした時、勢いを其の侭に今度は腕を自身に向けて引いた。
長年培って来た武士としての勘が、然うさせたのだろう。
咄嗟に膝を折り、頭を下げた。
刹那、頭の僅か上方を、風を切る音と共に何かが通過したのを感じ、
髪を結い上げ、斜めに挿していた紅の簪の破片が視界の片隅を落ちて往くのが見えた。
飛び退る男の左腕の手首の辺りから、鎌に似た鋭い刃が伸びている。
手首の内側から肘に掛けて走る溝から、バネの様な力を利用した
小さな断頭台であると分かった。
男の真の目的は此れであったか、と身を低くした侭片手で構え、男を見据えるも
唐突にばさり、と眼に掛かった前髪に、結わいていた髪が解けたのを知った。
狭められた視界を広げる為に気を其方に向ければ、亦男は迫って来るであろう。
一層結わずに切ってしまえば良かった、と
髷を結う機会等、もう無い事は分かっていたと云うのに
今更ながら遅い後悔をした。

「あの村では、日に幾度と無く侍共が暴れ、死人が出ておった。
 其れが当たり前の光景と為る程にの。」

張り詰めた心とは裏腹に澄み切った耳に、温かな水音が木魂する。
新たに湯呑に注がれる湯の音であろう。
差配の口調は至って穏やか、平常であり、世間話と何も変りはしない。

「村の者達は、仮令見知った相手がある日ふっ、と消えようと
 何処かで果てたのだろう、と嘆く事すらも忘れる程に
 村は死で溢れておった。哀れな事よの。だが、
 其れでも村を目指す者達は後を絶たぬ。
 村が救いで有る為だ。拠り所と為り得る事を心得ておるからだ。」

ずずっ、と湯を啜る音は麗らかな日差しの下にこそ、相応しい物であると云うのに、
血と不快な緊張を伴う汗とが満ちる此の場に在って、其れは異様な迄に穏やかで
まるで、背後には己の立つ生死の狭間とは別の、安寧の地が広がっている様にさえ思えた。

「私は考えた。此の私は如何にすれば良いか。
 哀れな者達の為、其の上に立つ私の為、最善とは如何にして得られるか。」


「簡単な事。利用してやれば良い。」


眼前から意識の逸れぬ様、じりじりと距離を詰め様とする男を牽制しつつ、
其れでも入り込む言葉に耳を澄ます。
湧き上がり掛ける不穏な気配を無視出来る物なら然うしたが
現実的な危機と直面している今でも、其の声の持つ奇妙な力が
纏わり付く事を抑え切る事が出来ない。
必死に己を叱咤し、前を見据え続ける。

「あの者達に気取られぬ様、人の流れの絶えぬ様、
 侍共の起こす騒ぎに乗じて飢えた肥を拾うのは
 存外に容易い物であった。
 人が無尽蔵に増え、同時に消えるを常とする村だ。
 死体を処理する商いに見せずとも構わんのだ。
 誰一人として、気に留める者は居らなんだ故の。」

差配の紡ぐ言葉は、脳裏を絡め取り、意思を奪い去る響きを持っている。
覗いては為らない。其れは、如何転んだ処で、
矢張り深淵に変わりは無い。

「男為らば最果ての地で、命の限りの労働を、
 女子供為らば、廓、他の街の差配や側近達の影の妾に、
 其の外にも、用途は幾らでもあるのだ。
 私は寛容だ。肥にすら慈しみの心を忘れぬ。
 仮令、肥以下と成り果てようとも、衣食住は、保障されておる。
 後の事に関しては、此方の知る処では無いがの。」

体が一瞬動きを忘れ、差配の言葉の意味を反芻すると
刀を構えた侭、心が乱れるのを感じた。
此の差配の云っている事は、其れは人道に反する事。
人の道を逸れ、魔道を覗く心に、知らず瞼が震えた。

「そして、死した肥は使える部位を業者に流す。
 人間なぞと云う物は、あれでいて腹を開けば
 捨てる物なぞ、欠片も無いのだ。」

残り滓は、此の街を歩けば数限り無く存在する溶鉱炉で処理するのだ、と
さらり、と話す差配の声に、抑えがたい吐き気を感じた。
此処に居てはいけない。脳裏を反響し続ける己の声が
一層強く強く響き、額に汗が浮ぶ。

「私の民は私の為に存在してこそ、幸福である事が出来る。
 私の為に生き、私の為に自ら其の身を捧げる。
 何とも尊い行為ではないかえ。」

然う云ってにこやかな笑みを浮かべる差配に、背筋が凍った。
差配は、己の行為を、己の考えの正当性を、全く疑っていないのだ。

この男は孤独だ。
己を認識する為の対象を、他人の存在を、己の内にすら見出だせない程に孤独だ。
孤独である己に思い至る事が無い故に、差配を遮るものは何一つとして無く、
其れでいて何人たりとも侵入を許さぬ真空の心を有しているのだ。
其れは、恐ろしいまでの、純粋。無垢な悪意其の物であった。

差配の言葉を理解したいとは思わない。出来るとも、思わない。
理解出来ぬ自分に安堵を覚えるも、併し嫌悪感は変わらなかった。


「貴方は―」

何時の間にか肩越しに差配の顔を凝視していた事にも気付かぬ程に乱れた心に
冷水を浴びせる様に突き出された刀が二の腕を裂いた。
苛烈の痛みに因って浮上する意思は、裂けた衣の合間に覗く白い布を捉える。
瞬く間に鮮血に染まる其れは、暗い路地に消える背を思い起させた。
ゆっくりと静まって往く精神を刃に乗せ、跳躍する。
空中で身体を捻り、繰出される男の左腕を避け、着地の勢いの侭背中合わせにしゃがみ込むと
瞬時に逆手に持ち替えた刀で、背後の男に最後の一刀を突き刺した。

「…!」

呻く声一つ上げず、刃を受け止めた男は其れでも刀を落とす事は無く、
溢れ出る血液が己の足を濡らしても、残り僅かな気力を振り絞り此方に寄り掛かる事もしない。
ふっ、と嘲笑にも似た溜息が、此の耳だけに届いた。

「…無様、だな。」

男は然う呟くと、仮令屑虫と成果て様と、此れだけは譲れぬ、と云うかの様に
最早感覚すら無くしているであろう手に力を込めると、自らの刀を首筋に走らせた。
驚愕に振り返る己の眼に、白い部屋を染め上げる鮮血の迸りが映る。
意思を無くした身体は、最後の最後迄己が誇りを貫かんとする男の意地を認め、
前方へと崩れ落ちて往った。死して尚、縋り付く事を拒絶するかの様であった。
血の海に顔を浸け、次第に静まって往く身体から刀を引き抜く時に為って、
男が、毎夜訪れていた顔も知らぬ客人である事に気付いた。
命ぜられる侭、使い走りと変らぬ雑務を強いられ、屑虫と蔑まれ、
其れでも己に意味と、生きる糧を与える主君に仕える事を全うし、自らに幕を引く。
此の男は、侍で在ろうとしただけなのだ。
心だけでも、誇り高く在りたい、と。
男の生き様は、今の己には傷よりも、死よりも深く心を抉り
せめて、戦場で見える事が出来たのなら、と
嘗ての己に想いを馳せた。
あの頃の己あった為らば、と。



「おや、死んだか。使えぬのう。」

耳に落ちる嘆きの声に、血液の沸騰を感じた。
だが、同時に心は静まり返り、濡れた侭の刀を冷静さを失わぬ心で
見遣り、ゆっくりと振り返ると差配を眼前に見据えた。
差配は、三度目の茶を啜り、ふう、と柔らかく息を吐いている。
此の男にとって、我等の戦いも、男の死も、三杯の茶にも劣る物であり、
余興ですら無いのだろう。

「全く、屑虫の分際で、己の仕事すら満足にこなせんとは、
 折角雇い上げてやったと云うのに、侍とは矢張り此の程度か。
 嘆かわしいのう。」

男の嘆きは、侍に対してでは無い。
そんな男を家臣としてしまった己に対して、なのだろう。
紅い足跡を残しながら、差配へと歩み寄ると、
手元の茶に執心している差配を見下ろす。
己の落とす影で視界が暗く為った事を咎める眼が此方を睨め付けた。

「無礼な。此の私を見下ろすなぞ、恥を知れ。」

無言の侭、表情を作る事を止めた顔で差配を見据え続けるが、
暖簾に腕押し、と云った様子で小言を云い始める。
差配の眼の中に己は居らず、只管に自己へと閉じこもる暗い暗い洞があった。

「あの者とてそうだ。私の素晴らしい思い付きも、肥共の美しい行為も、
 あ奴が村に入った途端に崩れおった。崩れおった。」
「…あ奴、とは件の鬼に御座いますか。」
「私はあの村を必要としている。あの肥溜めを。此の私が。此の私が眼を付けてやったのだ。
 小さき小さき肥共を、誰が救ってやれる。誰が救えると云うのか。
 村の者達は幸福だ。私の為に在れる。其れが何故、あの者にはわからぬのだ。
 私の為に働かぬか、と遣いを出したが其奴も斬られて帰って来おった。
 私の眼の見える範囲で、私の為に生きぬ者なぞ、いらぬ。いらぬ。いらぬ。」

差配は決して若くは無い。御前より少しばかり年下なのだと聞いていたが
眼前にいる男に、最早年を重ねたの人間の持つ哀愁や、逞しさを見る事は無く、
唯、中身だけが過去で立ち止まり、己を絶対と信じる無知な子供としか映らなかった。

「っひ!!」

差配の裾に湯が跳ね、掠れた畳に染みが広がった。
死した侍の鮮血に染まる刃を、鼻先に見た為だ。
慄き、ずるずると後退る差配の顔を、無感情に眺める己を想像すると
嗚呼、馬鹿げた事をしている、と苦笑してしまいたかったが、
蔑みを通り越し、一層哀れな男を見遣る此の眼は
深い虚しさに染まり、そんな気力すら残っていなかった。

己の為した事は、何なのだ。
あの誇り高い侍の為した事は、何なのだ。
村人達の為して来た事は、何なのだ。

此の童の様な男の箱庭で、虚言を並べ立て、繰り糸を手繰っていただけなのか。
其の先に、何も無い事を知らずに。

だとしても。

「…貴様の思っている程、あの村の者達は弱くも、小さくも無い。
 貴様の眼に然う映るのであれば、其れは貴様の卑小な心が、弱さしか知らぬ為だ。
 貴様が如何生き様と、俺も、あの者達も、知った事では無いのだ。
 勝手に遊んで居ればいい。所詮、貴様に待つのは、自滅でしかない。」

ゆっくりと刀を引き、踵を返した。
其れでも差配の身体は慄く事を止めず、膝を抱き蹲っていた。
冷え掛けた血に沈んだ侍を一度見遣り、其の姿を心に留め置いた。
微かな痛みを伴う記憶と為ろうとも、忘れずにいたい、
然う思えた。
襖を閉める直前、差配の呟く様な声が耳に届いた。





「其方とて、卑小で下らぬ事は同じであろう。」















そんな事は、云われずとも分かっている。
















2006/11/16

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