小説の設定をベースに過去捏造。平気な方のみどうぞ↓

































夜風が頬を撫ぜ、名残を惜しむ事も無く吹き去って往く。
夜空は未だ黒い雲を湛え、星も月も、其の裡へと沈めていたが、
雨粒を落とす事を止めた空は、微かに厚みを失った様に感じる。
所々掠れ、使い込まれているのが見て取れる大八車の荷台は雨に濡れ、
冷たい風に因って、湿り気が縁に預けた背から直に臓腑を冷やしており、
冬の到来を予感させたが、風に乗って微かに届く生暖かい温もりが
雪と為らずに落ち、今は雲間に身を潜めている雨を生み、
重力に縛り付けられ生きる者達に、未だ秋の夜長を楽しませる余韻を与えている。
身体の至る所に残る鈍い痛みを感じながら、黒い風に揺れる金糸の髪を見た。
男の眼は伏せられ、硝子の瞳を見る事は無い。


あれから直ぐに村へと戻ると、飯屋の女の驚きを隠さぬ視線を全身に浴びた。
村での騒ぎを聞き付け、物陰から此方を覗く好奇の眼の中に
女の姿を捉え、気を失った侭の男を任せていたのだ。
何者かの襲撃に備え、もしもの時は男を叩き起せ、と言残してはいたが
そんな酷い事は出来ないよ、こんなに痩せて、疲れが溜まっているんだ、
ゆっくり休ませてやらなけりゃあ、と非難の声が上がった。
だが、もし刺客が放たれようと、此の男為らば
仮令倒れる程に疲労し、意識を失っていようとも、
殺気を感じれば途端に跳ね起き、相手を斬り伏せるだろう、と
口には出さずに、起きたら飯を食わせて遣って欲しい、とだけ頼み
街を目指したのであった。
腕と頬から流れる血と、衣を染める血に眼を見開いた女に、
大した傷では無い、此の血の殆どは己の血では無い、と説明するも
全く、手の掛かるお侍達だねえ、と大仰な溜息を吐いた女は
傷の無い方の腕を力強く引くと、手当ての為に己の小屋へと招き入れた。
彼の男は未だ気を失った侭で、静かに布団に身を沈めていた。
何があったのか、と問われたが、其れを口にする事はしなかった。
差配の思惑等、口にするだけ無駄の様に思えた。
説明した所で、女も、他の村人達も村を離れる事はしないだろう。
村人達の子供であり、誇りである此の村を、彼等は見捨てる事が出来ない。
何より、強かで、一層清らかな彼等に、あの差配の無垢な悪意が
直接、確かな形で触れる事は、出来る事なら避けてやりたかった。
清らかであるが故に、彼等は脆い。
もし、差配の掌の上に在る事を知れば、彼等は明日を見据える眼を失いかねない。
あの男の為に、彼等の安寧の地を此れ以上汚す事等、あっては為らないのだ。
唯、黒衣の男達には注意する様に、村には決して入れず、
皆で考え、人々の繋がりをより強固な物とすべきだ、とだけ云い聞かせた。
此方の様子を訝しむ女の視線を避け、布の巻かれた腕を擦る。
塞がり掛けた傷の上に、新たに刻まれた一筋は、きつく巻かれただけの布の上に
赤黒い染みを作り、ゆっくりと広がって往く様は己の生を如実に物語っている。

「…まあ、云いたくないってんなら仕方ないけどさ。
 兎に角、生きて戻って何よりさ。此の人残した侭帰って来なかったら
 如何しようかと思ってたんだよ。あたしゃ、自分一人養うのに精一杯だからねえ。」

此の人、生きる為に稼ぐって考え無さそうだもんねえ、と苦笑する女に
釣られて笑みを浮かべた己に、微かに安堵した。






もし、またあんた等みたいなお侍が来る事があったら、其の時は
用心棒やってくれ、って頼んでみるよ、あんたが居てくれれば一番なんだけどね、と
夜の闇に紛れる様に、見送る女は笑って云った。
村人達が、街の者に覚られずに上の荒野へ登る為に使っていると云う崖の道を静かに登り、
彼等に、村で売る商品を卸している闇業者の大八車に乗せてくれる様、女が話を付けた。
業者の男は虹雅渓で売れ残ったり、必要とされずに捨てられるだけの
食料や衣類を破格の値段で売付け、収入を得ているのだと云う。
丁度虹雅渓への帰り道、構わんよ、と快く受け入れた男に礼をし、
今、夜風のみが耳に響く帰路を揺られている。
湖を横断すれば、夜が明ける前に辿り着く事も可能なのだろうが
式杜人の里を通るのは、如何にも気味が悪く、今は雨に因り水位が増していて
出来れば通るのは避けたいのだ、と眼下に真黒い墨の様な湖を臨み、荒野を進んでいる。
遠く、今は微かにしか其の姿を見る事は出来ないが、夜空に昼の光を零した様に
天に向かって射す淡い光を雲に映し出し、虹雅渓は其の存在を示している。
ひゅうひゅう、と髪を梳いて流れる風の冷たさは、女の笑顔やあの侍の誇りを想い、
だが尚影を落とす差配の言葉を一層深く沈め、陰鬱な心は晴れる事も無く
指先に迄広がっている。

元より承知の上である事は、誰よりも理解している。
己は卑小で、下らない。己に、卑小なあの男を斬る資格等、有りはしない。


まるで餓鬼の戯れの様だ。

触れれば壊れると知っていても、己の欲望を抑えるに足る知識も、自我も、
未発達故の残酷さであると、許される事では無い。

無知は罪であると、己で気付かねば何も変りはしない。

だが、変革を恐れるあまり、己は此の場に所在無さ気にぽつり、と立つ事しか出来ず
変らねば為らぬと理解していても、理解だけでは意味は無い。

行動をしないのは、結局の所、無知である事と大差は無いのだ。


































「……如何すれば良いのか、分からぬ…」






風の音に掻き消され掛ける微かな声が、ことり、と耳の奥底へと落ちる。
何時の間にか方膝を抱き、己の足を見詰ていた眼を上げると
六尺程離れた場に、背を預け首を下げていた男が微かに首を擡げていた。
髪と顔に掛かる影で表情は良く見えないが、男の眼が未だ硝子の様である事は分かった。
久方振りに耳にした男の声は酷く掠れており、風の音も相俟って耳を澄ましても聞き取り難い
物であったが、其れでも此の耳は確かに男の息遣いを捉えている。
言葉の意味を問うでも無く、無様な姿を蔑むでも無く、静かに男の言葉を待つ。
暫し然うして沈黙が流れたが、別段居心地の悪い物でも無く、
ゆるり、と瞼を伏せた。


「……何故、…我等は空を失わねば為らなかったのであろうか…」


男の声には悲観に暮れる響きも、憤りも存在せず、
唯々其の身に落ちた疑問を、思う侭に述べた静けさがあった。

「…世の流れ着いた先が此処であった、其れだけの事だ。」
「……流れを変える事は、出来ぬのか…」

男の願いは、闇夜に溶け、ゆっくりと広がって往く。
波紋を作る事も無く、水底の奥深くを揺らめき浸透して往く言葉には
人の温もりが込められている。
男が願うのは、修羅。血塗られた路を歩み続ける事だ。
だが、願いは言霊と為り、男の意思の感触が確かに伝わる事に
深い安堵を覚えている己が居た。
肺の奥に溜まった黒い毒を、漸く吐き出せそうな、
そんな淡い、切なる想いが脳裏を満たしている。

「世が然う望めば、或いは流れに逆らう事も出来たのであろう。
 だが、然うはしなかった。」

伏せた瞼を上げると、微かだが先程よりも視界が鮮明になっている。
見上げれば、あれ程垂れ込めていた雲が割れ、雲間から白く光が覗いていた。
漆黒の闇が、朝日を連れて地平へと溶けて往く。
知らぬ裡に、夜が明けようとしていた。


「疲れてしまったのであろうな。人も、世も。
 流れに逆らい続け、己ばかりを見据えていては、見えぬ事もある。」

柔らかな光の下に、金糸の髪が揺れている。
男は俯いた侭であったが、淡い光に透ける髪は一本、一本が白く輝き
光を溜め込んで往く様を、己は美しいと思った。

ふと、微かな鳥の声がする。
断続的に響きながら、確かに近付いて来る声の主を探すと
遠くに見える山を更に霞めて落ち、絹の様に揺らめく光の中を
横切り飛ぶ一団が眼に入った。
均等に並び、葉の落ちた枝の別れる様を想わせる姿は
次第に音量を増して往く声を伴い、此方に向かって来る。

石を擦る様な甲高い声は、仲間の無事を確かめる為の物だと云う。
欠けた者はおらぬか、無事であるか、と叫び続ける声は
翼を休めぬ限り、止む事は無い。
男は、声を押し黙り、羽搏き続ける事しか知らぬ鳥の様だ。
何時かは其の翼も折れ、地へと真逆様に落ちて往くと分かっていても
時には水に羽を浸し、疲れを癒せば良いのだ、と云う事を
此の男は知らない。
誰かが振り返って遣らねば、其処に在るかも分からぬ程に
男は何も語ろうとはして来なかった。

だが、己は聞いた。
確かに、男の声を聞いたのだ。
男が其処に在る事を、己だけが気付いている。
為らば、己も鳴こうではないか。
男の真中に届く様に。
己は、此処に居る事を、伝える為に鳴こう。


「ほんの少し、立ち止まったとしても、誰も咎めはせんさ。
 辺りを見回すだけの時間なら、我等にも、あって良いだろう。きっと…」


然うして亦、何時か羽搏けば良い。
翼は空に立ち向う為にこそ、其の両腕に宿っているのだから。



今は、其れで良い。
























数年の後、彼の差配が何者かの手に掛かり死んだ、と聞く事に為る。
下手人は未だ発見されておらず、だが、血眼に為ってまで探す事は
していないのだと云う。時を措かずして
都より指名された新たな差配は優秀で、何事も無かった様に街は機能し
村も、安寧の日々を変える事無く、地の底で影の様に蠢き、其処に在る。
暫くの間は、差配から送られるであろう刺客を警戒していたが
其の様な気配は僅かも無く、拍子抜けした物だったが
今と為っては、真意の程を確かめる術は無い。

男はと云えば、表面上大した変化も無く、人を寄せ付けぬ気配を放っている。
御前は男の手腕を一目で気に入り、我等為らばより強固な護りと為るであろう、と
己の保身に対する安心感の高まりを感じて笑っていた。
人と接し、関わり続ける事を疎ましいとは思っていない様ではあったが
昔も、今も、望んで人と接する事を得意としない男は、
矢張り変らず寡黙であり、今でも時折空を見上げては、物思いに耽っている。
だが、物を思うだけの余裕が出た事には、安堵すべきなのであろうと思う。

此の男は直向過ぎる。枉がる事を恐れはしないが、誰にも、
男自身の手に因ってでも、枉げる事等、出来はしないのだ。

けれど、あの日、男の眼に再び宿った様に見えた微かな意思の光は
掠れる事無く、未だ仄かに眼窩の奥で灯っている。


男の心は、未だ空に在り、空に囚われ生きている。
其れでも男は眼を見開き続けるのであろう。

仮令其れが、どれ程に、痛みを伴うとしても。






其の痛みを、己は感じる事が出来るのであろうか。
分かち合いたい等とは思わない。己は己であり、彼の男の見る空を
己の眼で見る事は、男の心を持たぬ限り、叶わぬ事。

此の痛みを、誇り、と云うのであれば、最早己の心は
肥え太り、腐り落ちるを待つのみなのかも知れぬ。


そして男は、望む空を見据え続ける瞳と出会い、
己は、男の瞳を拒絶する卑小な心を、捨て切る事が出来ず、

己は銃を、男は刃を、互いに向ける事に為る。




其れは遠い未来に起こる話であり、
直ぐ傍らに忍び寄る確かな現実であったが
今の己に見えるのは、微かに燻る嘗ての空と
風を孕んで揺れる金糸の輝きであり、
無知である事を恐れ、同時に安堵して立ち止まる此の足を
漸く、一歩踏み出せる様な気がしている。

















あとがき

2006/11/16

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