小説の設定をベースに過去捏造。平気な方のみどうぞ↓

































白い空。
微かに灰色を湛え、厚くも薄くも無い雲が何処までも
地平すら越えて続く。
街の吐き出す灰と煙をとを練り上げ、空に放てば
此の様な色と為るだろうか。
立ち昇る土の匂いが、来たる水の気配を想わせた。
雨が来る。



あれから五日。幾度と無く街と村とを往き来し、
街も村も、隅々まで知らぬ事は無いと云える程に歩き、
道を尋ねる事も前程無くなったが、どれ程歩こうが
捜し求める男の姿を見る事は無く、
視界に微かな紅を捉える度、くすんだ金糸の揺れる度、
はっ、と辺りを見回すも、其れは道往く男を誘う女達の襦袢の裾であったり、
腹を鳴らし座り込む童の傍らに有る、腕の取れた人形の髪であるばかりで
知らず知らずの裡に、溜息を吐く事も無くなって往った。
何処から溢れて来るのか、生き抜く意思の塊の様な人々の中から
押し出される様にして生を繋ぐ飢えた者達は村の半数以上を占め、
けれど、其れでも或る者は絶望を、また或る者は欲を、其の瞳に宿している。
どれ程落魄れようとも、明日を見失い掛けようとも、
自己の存在を確かに認識している彼らの中から、世界から切り離された様な、
無を映す緋色の瞳を見つけ出す事は、容易い事の様に思えて、
併し、如何しても見つける事が出来ずにいた。
或いは既に何処かへ去ってしまったのか、とも思ったが、
村を歩けば日を措かずに増えて往く血溜りに
男の存在を感じる事は出来た。
毎夜、壁越しに語る顔も知らぬ客人の声にも慣れた。
何時も皆が寝静まった頃に為ると、ぎい、と床を鳴らす男の最初の言葉は
決まって此方の首尾を問う物で、終われば音も無く帰って往く。
何故こうして毎夜訪れるのか、男は何者なのか、問おうにも
無言の圧力に気圧され、其れ以上の言を喉の奥底で止めてしまうのであった。
街に来た次の日、男の事も含め、差配に問うべく書簡を送ったが、
帰って来たのは、彼の鬼を不安に思うあまり、居ても立っても居られず、と
障りの無い文面で綴られた物で、此方の疑問に応える物では無かった。
何かを隠している。村の安寧の為だけでは無い、彼の男に居られては
困る何かが、あの村には、あの差配には有るのだ。
だが、其れを確信した所で己の為すべき事は変らず、仮令差配の望む結果と
為らずとも、今は彼の男を捜す事、其れだけが己に出来る唯一の物であり、
己は其の為に此処に在るのだと、村へと通い続けた。
馴染みの顔を作る事も無く、村の造りだけは大概直ぐに覚えたが、
歩き回るに連れ、奇妙な事に気付いた。
どれ程小さな集落であろうと、此れだけ人が居れば
老衰であれ、餓死であれ、他者に害された者であれ、
必ず死人は出る。実際、時折村の片隅でひっそりと息絶えている者も見る。

併し、此の村には墓所が無いのだ。



「何か買ってくれんのかい?お侍さん。」
「否、訊ねたい事が有るのだが、」

暖簾も、屋台すらも無い、火に掛けた鍋と鉄板、安物の食材を無造作に置いているだけの
飯屋の女に声を掛けたが、此方に買う意思の無いのを見て取ると
途端に笑顔を引き、鬱陶しい物を見る眼で睨め付けて来た。

「ならとっとと失せな。冷かしは要らないよ。」
「…雑炊を。串焼きも一つ。」
「あら、話が分かるじゃないのさ。ちょいとお待ち!」

軽快に何やら見た事の無い生物の肉を焼き始める女に、顔を逸らし溜息を漏らすが
気を取り直し、女へ向き直る。

「で、何だい?聞きたい事って。」
「嗚呼。村を見て廻ったのだが、此の村には死体は有るが、墓が一つも無い。
 如何処理しているのだ?上の街の墓所には入れんだろう。」
「ちょいと、あんた。飯屋で生臭い話は止しとくれよ。客が引いちまうだろう。」

飯屋と呼べるのかも分からない、吹き曝しの出店の主は
露骨に不快の色を表すが、こう為れば此方も引く事も出来ず、手段を変える事にした。

「気に為り出すと納まらぬ性質なものでね。
 何なら、情報料は別途で払っても構わんぞ。」
「あたし等は何もしやしないよ。奴等が勝手に片付けてくれるからね。」

突然ころりと態度を変え、目の前の餌に喰い付いた正直さに
世を渡る術を知る者の強かさを感じ、同時に呆れも感じたが、
其れよりも、気に為る単語に意識が向く。

「奴等、とは。」 「今日は未だ見てないね。大抵夕暮れ時か夜中に来るんだけどさ。
 真っ黒な衣着た、気味の悪い連中さ。」

女曰く、村が村として機能し始めた頃は、村の至る所に死体が転がり、
併し処分する事も出来ず、其れに因って流行り病で命を落とす者が続出したのだと云う。
だが、往く当ての無い村の住民達は此処に留まる他無く、村は荒廃の一途を辿っていた。
其処に現れたのが、例の黒装束の男達だ。

「奴等が死体と云う死体、全部持ってっちまったのさ。おかげで病は納まって、
 あたし等は大助かりさ。関わり合いには為りたかないけどね。」
「何故、其の者達は死体を?」
「其れが奴等の商いなのさ。此処で病が流行れば、直ぐ真上の街にも広まっちまうだろう。
 病の根本を片付ける代わりに、上から銭貰ってるって話だけどね。
 まあ、詳しい事はあたしゃ知らないよ。
 邪魔なもん片付けてくれんなら、何だって構やしないのさ。はい、お待ち!」

勢い良く手渡された茶碗から跳ねた雑炊が、地面にぼたりと落ちると
物陰から此方を覗いていた童が我先にとばかりに駆け寄って、
一粒一粒を拾い上げている。野良犬を払う様に、女が一声上げると
蜘蛛の子を散らすが如く、ぱっと四方へと走り去るも、
矢張り諦め切れないのか、此方を恨めしそうに覗き込んでいる。
続いて手渡された串焼きに、恐る恐る口を付けたが、
思った以上に美味く、香ばしい香りが鼻に心地良かった。

「併し死体は如何にする。埋めるにせよ、焼くにせよ、
 処理する場が無くては。街の外の荒野まで運ぶのか?」
「さあねえ。直接聞けばいい…と、噂をすれば。」

女の見る方を見遣ると、人込みの向こう側に、其処だけ人の流れが無い。
避ける様に壁際に寄る村人達の薄汚い様相からしても
一際異彩を放つ数人の男達が、通りを横切って往くのが見えた。

其の者達の姿を表現するには、黒、としか云えないだろう。
決してがたいが良いとも云えず、小柄な者、細く背の高い者、と様々だが
皆が皆、揃って真黒い衣に身を包み、頭は頭巾を被り顔を隠している。
何かを突詰めると、人は個として存在する為の、大切な物を捨て去る他無い、と
肌の露出する所等一つも無い程に、黒く黒く、空間を切り取った様な姿は
操り芝居の黒子を思わせたが、存在し無い事を表す黒子とは違い、
態とらしい程に存在を主張する事に因って、人々を遠ざける為の
故意的な物すら感じる。
村の路は狭く、村の中では大通りと呼べるのかもしれないが、
数歩で反対側の店まで届いてしまう程の物でしかなく、
目線の先に、其の姿を捉えて僅か数秒程、
小路へと入っていく闇を纏った男達を、眼で追っていると
男達の中でも、一際小柄であり、野鼠の隙の無さを思わせる
最後尾の男の頭巾の奥、影に為って此方からは見える筈も無いと云うのに
確かに男と眼が合った様な気がした。

途端、背筋が凍り付く様な感覚が全身を駆け抜けた。

手にした茶碗を投げ出し、男達を追おうとするも
背後から衣を鷲掴んだ手に阻まれ、勢い付いた身体が仰け反った。
「何て事してくれてんだい!!あたしの手から離れればあんたの物だ、
 如何し様と勝手だけど、こいつはあんまりじゃあないか!」

此の痩せた身体の何処から出てくるのか、力強く引き寄せる腕と怒りの形相に怯む裡に
男達の姿は小路の奥へと消えていた。
 
「全く昨今の侍共と云ったら、礼儀も知らない奴ばかりじゃあないか。
 まあ、昔から侍なんて奴にそんな物期待しちゃあいないがね!
 見下すのも大概にしやがれ!此処じゃあ古米だろうと貴重なんだ!」

再び集まって来た乞食達を余所に捲し立てる女の声に、辺りの村人達の眼が集まる。
日頃の鬱憤を晴らす様に、一度口から滑り落ちれば歯止めと云う物を知らない。
此れは、八つ当たりだ、と思う。
目の前に在るのが、切欠を作ったのが、偶偶己だっただけだ、と
銭を押し付けて其の場を立ち去る事も出来たのだろう。
併し、女の真直ぐに此方を見る眼の、余りの意思の強さは
己の深みに落ち掛け、彷徨い続けた
剥き出しの心に深く深く突き刺さり、眼を逸らす事が出来なかった。

「此処の侍共なんて、まるで村の主気取りだ。他ではこそこそしてやがるくせに
 村に入った途端でかい顔して、力で捻じ伏せ様としやがる。
 奴等の所為でどれだけ死人が出たと思う?無礼討ちだとか吐かして、無礼はどっちだ!
 あたしだって斬られ掛けたんだ。飯が不味い、然う云ってね。
 あたし等とあんた等と、何が違うってんだい!落魄れてんのは同じじゃあないか。
 其れでも、生きるしかない。どんなに薄汚くても、生きてくしかないんだ!馬鹿にすんじゃねえ!」

仕舞いには眼に涙を浮かべながら叫ぶ女の声に、皆が頷いている。
村の始まりは、職に溢れ、街から見捨てられた者達が
他の街へ往く事も出来ず、此の薄闇の地へと身を寄せた事だと云う。
皆で肩を寄せ合い、励まし合い、新たに村へやって来た者達を受け入れ、
然うして少しずつ、誰に頼るでも無く、彼等の力で作り上げた村だ。
仮令見目は悪かろうと、此の村は、彼等の誇りなのだろう。
春を鬻ぎ生きる女達も、がらくたを造り続ける男達も、
そうした彼等の生きる力に救いを見出し、此処へやって来るのだ。
決して美しいとは云えない女の涙は
此処で生きて往く、全てを諦めてしまうには未だ早い、
自分の力を信じて、生きて往くのだ、と云う
明日を見据え続ける、女の気高い心であった。

「…済まない事をした。己の不甲斐無さが恨めしい。非礼を詫びる。」

自然と頭を下げた己に、女は呆けた顔で此方を凝視している。
村人達も、下賤の民と蔑む事しかして来なかった侍が
女に詫びている様に驚いている様で、漣の如く小さく声が上がる。

「此の村の力強さはには、驚かされるばかりだ。誇りを捨てずに生きる事を
 選べなかった故、尚更な。安穏と生きる事に慣れ、誰かに頼る事ばかり考えて、
 己の力で立つ事すら忘れている。愚かな事だ。」

嘗ての己を想う。刀一本のみを信じて空を翔け、
目の前の全てが鮮やかで、恐れる物等、何も無かった。
けれど其れすらも、結局は弱い己の心が
知らず知らず空へ縋り付いて、己一人で生きているのだ、と
思い違いも甚だしい事にすら気付かずに居ただけだったのだ。
或いは嘗ての己ならば、女の言葉も、涙も、此の村の生命力すらも
届く事無く心の隙間を擦り抜けて、嘲り失笑していたのかもしれぬ。
何と卑小な事だろう。だが、其れも
今の己と、何が違うと云うのか。知っているか、知らぬか、其れだけだ。
矮小な己は、己の力のみで立つ彼等の放つ光に
眼を焼かれる事でしか、彼等に応える事等出来はしない。

「侍だ等と云った所で、所詮此の程度だ。御主達が羨ましい。
 此の村に来て、心底然う思った。」
「…もういいよ。侍でも頭下げるんだね。びっくりさせないでおくれよ。」

昂った感情で赤くなった眼を、涙を拭う事で隠す女は
其れでも濡れた侭の顔で此方を見て、笑った。
爽やかな、夏の風の様な笑顔だと思った。

「飯の事はもう済んだ事さ。仕方無い。まあ、御足はちゃんと頂くけどね。
 あと、情報料!こりゃあ、たんまり頂かないと。女の涙は高いんだ!」

どっ、と村人達の笑い声が上がる。
事の成り行きを見守っていた村人達が、人の流れを思い出すと、
何事も無かった様に辺りが活気を取り戻した。
隣の店屋の男に肩を叩かれ、笑顔で応える女は
転がった侭の茶碗を拾い上げると、付いた土を掃った。

「全く、変なお侍だねえ。侍は好きには為れないけど、
 結局の所、あたしを助けたのも侍だから、おかしな話だ。
 あんた等みたいのが居るもんだから、嫌い切れないじゃあないか。」
「?」
「斬られ掛けたって云ったろう。危ない所だったんだけど、
 侍に助けられたんだよ。聞いた事無いかい?真っ赤な服着た侍さ。」
「な、」

突然、女の口から出た男の話に、眼が見開かれる。
茶碗に残った汁を拭っている女は此方の様子には気付いておらず、
話を続けた。

「まあ、あちらさんは、あたしを助ける気なんか無かったみたいだけどね。
 ちょっと前から村に住み着いて、侍共を斬って廻ってるのさ。
 鬼、とか云う奴も居るけど、侍が減ってこっちは助かってるよ。
 あー、でもねえ、」
「何だ?」

此方の必死な形相に、驚いた女は茶碗を拭う手を止めた。
掴み掛らんばかりの勢いに、たじろいだ侭此方を見て話す。

「いや、あのお侍が来た頃からかねえ、黒服の連中が
 村に来る回数が増えたんだよ。」

前は二、三日に一遍くらいだったのにねえ、と訝しむ女の声は
先程の男達の姿を思い起させた。
男が一瞬、此方を見た、あの眼。


あれは、殺気ではなかっただろうか。








夜半を過ぎた頃、溜りに溜まった雲が雨を落とし始めた。
しとしと、と振り続ける雨に隠れて、
其れでも灯りの消えぬ街並みが、窓の向うに、ぼう、と浮かび上がっている。
結局、あの後も村を探し回ったが、彼の男を見る事は無かった。
だとしても、未だ数日有るのだ。
己を突き動かす物が何なのか、己の愚かさへの贖罪の様にも感じるが、
此の数日、欠かす事無く村へ降り、彼の男の姿を追い求め、
避けられているのかもしれぬ、と思い至るも
霞み掛ける想いを其れでも失わずにいられるのは
彼の男の眼が、今も暗く何も映していないのだと、
其れだけが気掛かりで、己への贖罪等と云う物は
二の次なのだ、と村人達の強さに気付かされたからだろう。
あの村の人々の強さの中で、染まる事も無く、流される事も無く、
近付く程に遠く、陽炎の如く揺らいで、
触れれば消えてしまう様なあの眼を、誰が繋ぎ止める事が出来ようか。
己ならば、等と傲慢な物云いだとも思う。実際、傲慢だ。
己の存在を過信していると、笑われるだろう。
其れでも構わない。
村人達の様に、寄り添い、助け合う事等、我等には出来ない。
そうする心算等、初めから毛頭無いのだ。
同じ空を見て、同じ世界に立っていた。
時には背を預け、共に戦って来た。
併し、其れは寄り添い生きる事とは違う。
誰かに、何かに縋る事しか出来ぬ己が云った所で
信憑性等、無きに等しいだろう。
だが、己は彼の男に縋られたいと、救いを求められたいと、
そんな事を望んではいないのだ。

雨。夜の闇を更に深めて降る、雨。
雨は嫌いでは無い。傘に雫の跳ねる音も、濡れて歩く事も、
何れ雲間から射すであろう陽光や、月明かりを予感させる。
彼の男は、雨は嫌いだと云っていたのを思い出す。
服の濡れる感触が、重苦しく、如何にも好かんのだ、と。
素直に不快を示す言葉に、情緒の欠片も無い、と
呆れて溜息を吐いたものだった。
今の男に、雨を煩わしく思う事は出来るのだろうか。
今も、村の片隅で、雨に濡れているのだろうか。





暗い路地の奥深く、雨の降る音だけが場を満たす。
岩や廃品の山に遮られ、上の街程には落ちては来ないが
番傘は狭い路に阻まれ、壁や物に支えるばかりで
村を歩くに連れ、差していないのと変らぬ程に濡れ、
然程進まぬ裡に差すのを諦めた。
夜とも為ると、昼の喧騒がまるで嘘の様に静まり返り、
蠢き生命を宿す村は、人々と共に眠りに就いている。
村の眠りを妨げぬ様、静かに、静かに歩く。
実際、命を持っている様に感じていたのは確かだ。
人々の生きる力の宿る村。生命力の立ち昇る村。
進む先に、覚める様な紅を見た時、
全てを別け隔て無く受け入れて、包む此の村の
意思の様な物を、己は確かに見た。

眠っている訳では無い様だった。
全身の力を抜き、だらりと其の身を壁に預け虚空を見上げる姿は
数日前に見た姿となんら変りは無い。
今、傍に寄れば、復斬り掛かって来るのかもしれない。
だが、水溜りを避け横に腰を下ろしても、
男が此方を見る事も、身じろぐ事も無かった。

沈黙。

あの日、息苦しく感じた静寂も、今は雨に掻き消され
其れでも、此の場に流れるのは、唯、静寂であった。

「…何を見ている。」

男の眼は、矢張り硝子の透明さで、何かを映している様には見えない。
眼に雨の入る事も気にせず、唯々男の見上げる先へと眼を遣ると
村の闇と同化する様に、黒く重い雲を湛えた夜空が
屋根と屋根、岩と岩の間から僅かに覗いていた。

「空を、見ているのか。」

夕暮れの街並みを思い出す。
あの日も、男は茜に染まる空を見ていた。
此方に背を向け座る男に対する苛立ちと
己の思慮の無さから、気付く事は無かったけれども。
だが、髪に隠れて見えなかった瞳の続く先には
確かに空が有った。

空。戦場の空。男の生きた、空。

「此の村の空は狭いな。」

嘗ての我等の足元には何も存在せず、唯只管に、自由だった。
其れが仮初の、其の実限られた自由だったとしても、
自由に縛られる度に、確かに我等は、自由だった。

「戦場が、恋しいか。」

身体の隅々に迄往渡る、命。
刀を揮う事に因って齎される、命の実感。
其れは、侍のみに許された感覚、
否、其れを糧とする事しか出来ぬ生き物、其れが侍だ。
為らば、己は矢張り侍に非ず。
糧を拒み続ける事を、嘗ての己を忘れる事を、
そして、其れでも刀を捨て切れずに居る事を、
迷い、迷い、そして最後には甘受する。
そんな者を、如何して侍等と云えようか。
其れでも。


「捨て去る事等、出来よう筈も無いのにな…」




ちゃぷり、と水の滴る音がした。
気が付くと、男は其の場に立ち上がり、
何処を見ているとも知れぬ眼が、揺らぐ事も無く
暗い路地を見据えている。
其の時に為って、男の眼線の先に
何者かの姿を捉えた。

熱を持たぬ身体は、大気の熱を吸い
冷え切った雨よりも尚冷え、
闇を受け、黒く歪んだ
灰銀の鉄鋼の、鈍い輝き。

機械の侍であると気付いた時、
隣に在った男は、閃光の如く走り出していた。
女の金切り声を思わせる金属音が響き渡り、
幾度も続かぬ裡に止んだと思えば、
黒い巨体は大仰な音を立て、地へと沈んだ。
瞬く裡に決着が付き、思わず立てた膝を其の侭に
男の俊足を見届け、男の元へ歩もうと
立ち上がるべく、足に力を込めた。
また、先日の様に闇に溶けてしまいはしないか、と
焦る気持ちも有ったのだろう。
背後の気配を察した時には、全てが遅く
振り返る眼前に迫る影に対する暇は、己には無かった。


嗚呼、終わるのか


人の云う走馬灯の様な物を見る事も無く、唯感慨も無く
脳裏を掠めた其の言葉に、己の矮小さを見た気がした。
恐ろしく緩慢に流れる世界。
肩へと吸い込まれる刃の輝きを、末期の景色へと刻み付けようとする
瞳孔の不快な伸縮を、確かに感じた。


其の光景を、如何形容すればよいだろうか


今正に刀が肩を通り抜け、胸と、腰とを連なる一筋の鮮血が
雨粒を染め上げ、迸らんとした時。
視界の隅から伸びる白刃を携えた生白い腕が
迫る刀を弾き、反す刀で影を斬り伏せた。
反動の侭吹き飛ばされ、壁に叩き付けられた身体は
男の刀に、持つべき生命を置き忘れて、ずるり、と崩れ落ちた。
雨の流れに沿う様に流れ、薄められて広がる赤い血の鮮やかさは
暗闇に在って尚、最後の火を燃やす様に赤く、地に染み込んで往く。

唐突に呼吸する事を思い出し、大量に流れ込む酸素に咽返り、
荒く、浅く繰り返す心臓の拍動に、漸く己が生き永らえた事を知った。
先程まで、湖の凪ぐ様の如く澄み渡っていた心が
生の実感を伴って、荒れている。
此れが、死か。
否、己は此の感覚を知っている。
知っていた筈だと云うのに、如何にも身体が云う事を聞かない。
突然舞い戻って来た実感に、身体が着いて来ないのだ。
息を詰まらせ、如何にか動悸を抑えようと、
必死に拳を握り締めた。

ばしゃり、と水飛沫が飛ぶ。
雨音よりも、己の鼓動の音よりも、大きく耳へと届いた音の
飛沫の先を見遣ると、
雨を吸い込み、元の鮮やかさを取り戻した様に見える
掠れた紅の衣が、血溜りに浸る様に其の身を横たえる様が
眼に飛び込んできた。

「キュウゾウ!」

取り縋る様に肩を揺さ振るが、反応は返って来ない。
見た所外傷は無いが、うつ伏せる身体を起こし、
生存を確認しようと膝に抱き上げた其の身体の軽さに、
生きる者の漲る力等感じる事は無く、
微かに上下する胸に安堵する事すら出来ず、唯唖然とした。

衣の上からでも、確かな筋肉のしなやかさを想わせた腕は
枯れ枝の如く、萎びた骨の様で、皮の張られただけの
無骨な絡繰り人形の禍々しさを持っていた。
胸に触れると、浮き上がる骨の当たる感触ばかりが如実に感じ取られ、
血の通う肉体の瑞々しさは、何処にも無い。

此れは何だ

此れが、嘗ての朋輩の姿だと云うのか。
痩けた頬に指が触れ、其の冷たさは
背筋を駆け抜ける悪寒を連れて、臓腑へと落ちた。

「…キュ、ウゾウ、おい、キュウゾウ!」

此の侭身体から、雨の冷たさと共に
何かが抜け落ちて往ってしまう様な、
如何し様も無い焦燥感に急き立てられる様に
乱暴に肩を揺さ振ると、握り締められた侭の男の刀が
するりと手から滑り落ち、薄れた血溜りに波紋を生んだ。

波紋は雨に遮られながら、静かに広がり
何かにぶつかって止まった。
其の先を見遣ると、先程男が斬った者が
流れきった血潮を惜しむ事も無く、肉の断面を晒している。
其の姿に、一瞬呼吸が止まった。

黒。そう、其れは黒であった。
闇を刳り貫いて、固めた様な黒。

一度、唯の一度だけ、視線を交えただけであった。
其れでも、見間違う筈が無い。
其れは確かに、昼間見た、あの男であった。











2006/11/5


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