小説の設定をベースに過去捏造。平気な方のみどうぞ↓

































窓から差し込む夕日が、部屋を淡く染めている。
鉄を鍛える甲高い音が響き渡り、通りを行き交う人々は
夕餉の為に空かした腹を満たすべく、家路を急ぐ。
飯屋から漂う鼻を擽る香りに足を止め、誘惑を振り切り、
家族の待つ家を目指す者も居れば、負けて暖簾をくぐる者も居る。
火の絶える事の無い街は、人の気配に満ち溢れているが
眼下に広がる生き生きとした光景は、まるで現実味を帯びず、
何処か知らない世界の景色を垂れ流し、廻り続ける影灯篭の様だ。
開け放たれた窓から此方側の静けさが、本来の己の在るべき場であり、
手を伸ばせば届く、魅惑の世界に穢れた此の手が触れる事を恐れる様に
茜色の空に落とされた影の中、壁に身を預けていた。
此処は、工業区域で働く労働者達が共同で使用している宿舎の一室だ。
主に妻子を持たぬ一人身の者達が住まう場であるのだと云う。
差配は邸の客人用の部屋を、と申し出てくれてはいたが、
唯の護衛である己には、其の様な心遣いは無用、と
此の部屋に腰を落ち着かせたのが数刻前だ。
寄宿舎であるとは云うものの、恐らく末端の労働階級からすれば
かなり良い条件の部屋なのだろう。炊事場や、風呂場も有る。
下女を一人付けるとも云われたが、丁重に断った。
平民と同じ部屋で、と云って此の様なのだ。
差配の邸の華美な装飾に彩られた部屋では、
漂う香の匂いで心休まる事等、一時も無かったであろう。
差配の配慮は有難かったが、
唯、今は一人に為りたかった。

袖の下に隠れた、包帯の上を擦る。






咄嗟に抜き放った刀で、辛うじて刃の軌道を逸らしたものの
二の腕を掠めた切っ先は肉を裂き、溢れた血が衣を染めた。
信じられぬと云う気持ちよりも先に身体が反応し、間合いを取る。
片手で正眼に構え、血溜りを更に広げる己の血の音を聞きながら
刀を持つ手をだらりと下げる男を見据える。
殺気は感じない。故に、襲い掛かる刀に反応出来なかった。
まるで蚊でも払う様に、感情を持たぬ刃は流水を思わせた。
其の様な気配すら、微塵も感じさせぬ男の出方を予測出来ずに
緊張を解かぬ侭、頬を伝う汗の感触を鬱陶しく思っていると
刀を鞘に納める音が、空空しい程にはっきりと響いた。
驚きに見開かれた眼で、覚束無い足取りの男の向かう先を見遣るが、
最早此の場の全てが意味を為さないのだ、とでも云うかの様に
暗い路地の奥へと消えて往く背を、己は追う事が出来ずにいた。
一体、何だと云うのだ、と脳内に響き渡る己の声に
構えた侭固まった腕を動かす事すら忘れる程に、唯々困惑していた。
流れ続ける血の痛みを思い出した頃には、男の姿は闇に溶け、
酷く疲労した身体を無理矢理動かし、辺りを捜し歩いたが
狭い筈の此の村は頑なに男の存在を隠し、
村其の物が一個の生命体の如くうねり、己を嘲笑うかの様だった。






処方された痛み止めは、沈んだ思考を更に奥底へと誘う。
乾き掛けた血の黒さに驚いた部屋の管理人が、己を気遣い用意させた物だが、
今の己にとっては、追い討ちをかけるに等しい。
一層手当てを断れば、痛みで気が紛れはしなかっただろうかと
気だるい身を持て余しながら思ったが、
傷の疼く度、脳裏を掠めて往くであろう紅い眼が此方を素通りして往くのは
今以上に己を追い込みはしないだろうか。
己以外、何者の気配も無い空間に一人。
孤独は己を癒しはしないが、拒絶もしなかった。
別段、傷付いている訳では無い。彼の男が己を虐げるならば、
其れに見合うだけの力で対するだけだ。必要と感じれば
己は迷わず彼の男を斬るだろう。其れは戦場に在った頃から、変わりはしない。
後悔は、するのかもしれない。だが、長く引き摺る事はしないだろう。
侍の誇りを捨てた様に、故郷を捨てた様に。そうして男の存在を過去へと捨てて
己は生きて往く。少しだけ風通しの良くなった心を連れて、生きて往くのだ。
己自身で決めて来た事だ。今更、己の生き方を責めた所で、意味は無い。

だが、為らば何故こんなにも彼の男に執着するのだ。
つい先日まで、思い出す事すら無かったと云うのに。
ゆっくりと、夜を引き連れて暮れて往く夕映えの街並みが
何時かの景色へと重なる。
確かにあの日も、空が朱を湛え、美しかった。







戦が終わり、混迷の道を辿り続けて来た世界が、落ち着きを取り戻すには
今少しの時間が必要であると、口には出さずとも誰もが思っていた頃。
生き延びる為に各地を転々としていた我等が、虹雅渓に辿り着くのに
然う時間は掛からなかった。
始めは街の姿に驚きもしたが、戦の存在を色濃く残す此の街に
居心地の良さを感じていたのも、又事実だ。
戦で村を失った者や、我等と同じく居場所を求めて流れて来た者達を纏め上げ、
大地に突き刺さる巨大な廃物でしか無かった船の残骸を街とし、
元々或る程度力を持った商人であった事もあり、当然の様に
差配の座に納まったばかりの御前が、用心棒を探していると云う話を耳にしたのも
思えば己の弱さが引き寄せた物の様に感じる。
聞いた其の足で、まだまだ今程には整っていなかった街を散策しながら
数日前に別れた朋輩を探して歩いた。
彼の男を見付けた時には、空が眼に映る全てを茜色に染め上げていた。
街と街とを繋ぐ橋の上に、片膝を抱え腰を下ろしていた男は
此方を見る事もせず、欄干の外に垂らしたもう片方の足を
風に揺らされる侭にしていた。
背後に立っても、身動ぎもしない背に小さく溜息を吐き、
どうせ何も口にしていないのだろう、と買って来た握り飯を男の横に置いた。

「食え。折角生き延びた命だ、粗末にするな。」

空と同じ色に染まる雲ですら、風に流れて往くと云うのに
動きを知らぬ木偶の様に、僅かに首を擡げぼんやりと景色を見詰ている。
本当に戦が終わったのだと、皆が漸く気付いた頃には既に男は此の様で、
長く同じ部隊に在った誼で、仕方無しに行動を共にして来たが、
何時まで経っても変わる事の無い男の様子に、己は僅かに苛立ちを感じていた。

「差配が、腕の立つ用心棒を探しているのだそうだ。此の侭其の日暮しを続けた所で
 何れ路銀も尽きる。身を固めるには良い機会だ。御主もどうだ。」

仮令僅かでも、刀を揮う場を与えてやれば少しは増しに為るのではと
微かな期待を含み答えを待ったが、紅い衣の裾が風にはためくだけで、
何一つ言葉を発する事は無かった。
此れが呆れや嘲りに繋がっていれば、最早男を捨て置く事に、何の迷いも無かったであろう。
だが、男の様は苛立ちを募らせるばかりで、眉根に寄る皺を感じながら
何故此れ程苛立つのか、己でも理解出来ずに、唯男の背を睨め付ける事しか出来なかった。

「何時までも然うしている心算か?其れでは屍と何も変わらんぞ。」

嘆息する事も出来ず、湧き上がる苛立ちを言葉に乗せてぶつけた所で、
拒絶とも取れる男の背は、己の言葉も感情も受け流してしまうだけで
如何し様も無い疲労感だけが残るばかりであった。

何故、届かない。

言葉が意味を無くせば、思考を共有している訳では無い我等に
繋がりを絶たぬ為の、何が残ると云うのか。

男を見限る事も出来ずにいる己にすら感じる苛立ちを抱え、
踵を返して其の場を後にした。
此れ以上あの場に居ては、己の衝動を抑え切る自信が無かった。


其の日を最後に、男は姿を消した。







今思えば、あの頃の己は目の前の平穏を受け入れる事に精一杯で、
隣の存在に構う余裕すら、碌に無かった様に思う。
唐突に訪れた穏やかな日々を、恐れていた。
安らぎの中で死ぬ事を想像する度、空に焦がれる心が悲鳴を上げた。
忘れてしまわなければ、受け入れなければ、狂ってしまいかねない程に。
全てを過去としてしまえば、楽に為れる。
自己を守る事だけは、誰よりも得意としている己には
誇りを捨てる事も、然程難しい事では無かった。
其れでも未だ刀を捨てずにいるのは、空を見上げる度に
心の中に確かに存在する虚しさが、空への想いを断ち切れずにいる
嘗ての己を呼び覚ましかねない事を、拒み続ける為、と云っても良いのかもしれない。
忘れなければ。
忘れなければ。
忘れなければ。
己に言い聞かせる様に、暗示を掛けて、掛け続けて、
そうして忘れた振りをし続ける事で、辛うじて己は立っていられる。
御前の下で働く事は、此の暗示を更に強める事となり、
何時しかあの空は、遠く遠く霞む様に遠く、心を素通りして往く様になった。
其れと同時に、彼の男の事も忘れた。
戦場を翔け、紅い影を敵艦へと落とし、両断された機械の侍達の合間から現れる
一陣の風の何と勇壮な事。
一種の憧れすら抱いていた男の様も、戦と共に過去へと流した。
忙しなく蠢く世界に呑まれて、其れでも生きる事に、世界に縋り続ける為には
そうする事しか出来なかった。




何時の間にか、青白い月明かりが部屋を照らし出していた。
眠りに逃げ込めば、幾らか楽であったろうに、
己の弱さばかりが脳裏を満たし、止め処無く溢れ続ける過去は
一切の動きを封じていた。
普段は考えもしない、否、無意識に考えない様努めていた事が
一度に流れ込んで来る。忘れた筈であったと云うのに、
夜の闇に溶け込む事すら許されないのか。
弛緩した顔の筋肉を動かそうにも、如何やって動かしていたのか
分からなくなっていた。

男の眼は、あの日もあんな色をしていたのか。

虚無で出来た硝子玉は何を映しているのだろうか。
己の事ばかりに気を取られて、あれ程近くに在ったと云うのに
気付いて遣る事すら出来なかった己の、愚かな事。
戦場で見る彼の男は、何時でも此方に背を向けて
誰よりも先に敵陣へと駆け出していた。
嘗てはどの様な眼をしていたのか、思い出そうにも
空を舞う男の背ばかりが脳裏を過り、如何しても
思い出す事が出来なかった。
何故、あれ程苛立っていたのか、今ならば分かる。

あの男は、空に在ってこそ、の存在なのだ。

戦場の空と男とは、最早一心同体の存在であり、
空気を吸い込む事と何も変りはしないのだ。
男にとっても、己にとっても、空に在らぬ男の姿は違和感を生み出すばかりで、
本来の男との差異に、男自身も苦しんでいたのだろうか。
翅を毟り取られ、死んで往くだけの無力な羽虫とは違うだろうに。
生きてさえいれば、何かが変わる事もあると
願う事を知らない男は、地に落ちて生き方を忘れてしまったのか。
あの時、殴り付けてでも此方を向かせていれば、
また違う今を得る事も、或いは出来たのかもしれない。
だが、今更後悔した所で、男は己の前から消え、そして今、
あの薄闇の世界で朽ち掛けている。それは変え様の無い事実なのだ。

「もう一度、会わねばな…」

会って如何する心算なのか、無機物に話し掛けとしても
矢張り何も届かぬのかもしれない。
今生の別れと為るのか、共に在る事を選べるのか、其れは定かでは無いが、
其れでも今の現状を作り出している要因の一つに、過去の己の浅はかさが
関わっているのも確かな事実で、何もせずにいる事は出来ない、と
少しだけ感覚の戻った掌を握り締める事で自身を叱咤すると、
だるさの残る身体を起こすべく、力を込めた。


其の時だった。部屋の外に何者かの気配を感じた。
微かだが、ぎい、と床を鳴らす音が聞こえる。
途端に全身の神経が研ぎ澄まされ、漸く浮上した己自身に安堵を覚えながら、
気配を殺し、戸の横へと移動する。

「何奴。」
「差配の遣いの者に御座います。」

突然話し掛けられても、動じる気配すら感じない。
辛うじて聞こえる程度の囁く声は、重く嗄れて年は判別出来ない。
壁一つ隔てても、相当の使い手である事は明白で、
先程の床の鳴る音すら、此方に覚らせる為の物であったとすれば、
差配の護衛の一人ではないか、と考えを巡らせるも、
柄に掛ける手の力を抜く事はしなかった。
長く呆けていた事もあり、外の暗さから察するに丑の刻頃であるのは
分かったが、無思慮にも程がある深夜の客人は
悪びれる様子も無く壁越しに用件を伝えて来た。

「首尾の程は。」
「…初日故、村の造りに慣れておらぬ。
 今暫く御待ちを、と差配殿に御伝え願えるか。」
「承知。」

既に刀を交えた、とは云わなかった。
結局の所、何も変ってはいないのだ。
此方が手傷を負おうとも、男が侍を斬ろうとも、
差配の側から見れば、差配の望む変化等、何一つ無い。
伝えるに値しない事だと判断し、次の出方を窺っていると
用は済んだ、とばかりに無言の気配は遠退いていった。
客人の去った後、音を立てぬ様戸を開けた。
ゆらめく灯火の仄かな灯りは、点々と通路を照らし出していたが
其の奥に続く暗闇は、全てを飲み込まんとする様に深く、
空恐ろしい物すら感じる。


併し、如何にも疑問が残る。
首尾を窺いに来たのであれば、何もこんな時刻に来る必要等無い。
差配もとうの昔に床に就いているだろう。
客人の事も然うだ。差配は、己には彼の男を抑える力等無い、と
確かに然う云っていた筈だ。
だが、先程の男、壁越しに一度見えただけだと云うのに
力が無いとは云えぬ程に、酷く研ぎ澄まされた、抜き身の気配を纏っていた。
嘗ての朋輩と比べても、恐らく其れに近い力を持っている事だけは
去っていく気配の隙の無い様から、察する事が出来た。
あれ程の手練れを傍に置きながら、迷う事等無い様に思える。
何か有れば、遣いの者を遣すとは初めに云われていた。
此方に用の有る時も、書簡にて知らせる様にとも。
邸の部屋を貸す、と云っていたにも関わらず、
まるで邸には近付くな、と暗に云われている様だとは
思っていた。
だが、彼の男の事が気掛かりで、街に入る前に牛車を降り、
村への降り方と此の部屋の場所だけを聞いて、
礼もそこそこに、急ぎ村へと向かった己には、
今の今まで気にする事の無い、些細な事であった。
だが、先程の遣いの者の存在が、黒く小さな染みの様でしか無かった
差配の言葉に、水を垂らし、少しずつ広げて往く事と為った。


何かがおかしい。


常闇に挟まれる様にして、窓の無い通路の真中に立つ己の姿は
此の先の行く末を示唆している様で、無意識の裡に
手にした鞘を握り締めていた。













2006/10/26


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