小説の設定をベースに過去捏造。平気な方のみどうぞ↓

































辺りに立ち籠める異臭と、絶え間無く吐き出される排気に眉を顰める。
往き違うのも困難な程に積み上げられた廃棄物や、所々突き出した煙突に
往く手を阻まれながらも、先へと歩みを進める。
足元を鼠がすり抜けて往ったかと思えば、
物陰から伸びる生気を感じさせない腕が袖を掴む。
骨の様な手を払い、鉄屑を踏みながら奥へ奥へと進むと、耳を掠める様に
微かな鳥の啼き声を聞いた。
上を見遣れば、張り巡らされた配線や穴だらけのトタン屋根を覆う様に漂う粉塵の向う、
遥か上層に白く淡い光が見える。
薄い雲の膜に遮られた陽の光は、淀んだ此の場の空気に因って一層輝きを失い、
暗く湿った地の底を仄かに浮び上らせている。
日差しの恩恵すら拒絶する薄闇の世界を振り払うかの様に、
僅かに覗く空へ眼を凝らしたが、声の主の姿を見る事は終ぞ無かった。





其の噂を耳にしたのは、つい先日の事だ。
御前に拾われ、護衛として邸に住み込む様になって、一年に為ろうとしている。
絢爛豪華の一言に尽きる御前の暮らし振りにも慣れ始め、
徐々にではあるが、他の街からの客人を持て成す席を共にする様にも為り、
己の腕を買われている、と云う確かな実感を感じ始めた頃だった。
其の日も、茶の席に同席し、商人達の緩やかな会話を聞き流していた。
煌びやかな茶室は、贅を凝らした装飾品や茶道具が凛とした佇まいを見せ、
薄く立ち昇る湯気と、活けられた花の調和は、素直に美しいと思えるものの、
長年血と硝煙の只中に在った己には、仮令過ぎ去った過去であったとしても、
些か馴染めない、遠い世界の様な空間であり、
傍らに置かれた刀の感触を確かめ、何とも云えない息苦しさを紛らわせていた。
雅な笑い声を上げ、都の動向や下の街の様子を語らっている此の場の主役達に眼を遣る。
御前の恰幅の良い腹とは反対に、細く折れんばかりの身体を豪奢な着物で包み、
笑みを浮かべた侭固まってしまった様な狐目を御前へと向け、にこやかに話す本日の客人は、
嘗ての戦の傷跡と、遺された負の遺産を利用した虹雅渓の東、
爆心地の底に地下水が溢れ、人々に恵みを齎す湖を挟んで対岸の巨大な亀裂に
虹雅渓と同じく、人が住み着き出来た小さな街の差配であった。
此の街程では無いが、剥き出しの地層からは豊富な鉱物が採掘される事もあり、
急成長を遂げつつある工業の街である。
実際虹雅渓でも、至る所に其の街で造られた鉄が使われており、
此方からも、食料や衣服等、互いの街では手に入り難い物を売買し、
街を成長させて往く為に助け合う事で、其の差配とは
長年友好的な関係が続いているとの事であった。
併し、彼等は商人だ。腹の底では探り合い、
あわよくば相手の持つ富を我が物にしよう、と
己の際限の無い欲望を笑顔の裏に隠し、こうして茶を飲むのだ。
だが、己には関係の無い事だ。己にとって重要なのは、
彼等の繁栄が己に職を与え、生きるのに十分な財を与える存在だ、と云う事だけだ。
衣食住が保障され、戦場で培った腕を揮う場を与えられている。
戦が終わり、居場所を無くした己には、刀に縋る様に生きる他ないのだ。
御前は、そうする事でしか生きられぬ己を必要としている。
そして己は生き延びられる。利害が一致していれば、
互いにどう生きようと、互いに害が及ばなければ勝手にすればよい、と
刀緒を弄ぶ様に指に絡ませながら思った。
緩やかで退屈な時間を、思考の海を潜る事で受け流していたが、
廊下に人の気配のする度に浮上を繰り返すのは、退屈を更に深めるだけであった。
仕方無しに、意識を商人達へと向ける。
話は虹雅渓の今年の経済状況から、客人の街の話題へと移っていた。
民草の様子、採掘状況、新しく導入した掘削機の性能、等
言葉の節々に自己顕示の見え隠れする会話に、どちらにせよ退屈するならば、と
再び、意味を為さない思考の廻旋へと戻ろうとした時であった。
客人の何気無い一言に、意識が一点へと集約される。


近頃、街の外に鬼が出るのだと云う。







からん、と音を立て錆付いた缶が爪先から飛んで往く。
広さは近隣の村々程でしか無い云うのに、複雑に入り組んだ街並みは
歩いた時間の割に、思う様には先へと進ませてはくれない。
此処は爆心地に生じた大地の亀裂の最深部、貧民街とも呼ばれる小さな集落である。
地表に程近い工業区域とは違い、荒んだ空気が満ちている此処は、
元々は処理し切れない廃品を捨て置く処理場であったと云うが、
何時からか、上で職にあぶれ、往き場を無くした者達が流れ着く、云わば掃溜めの様な場所と為っていた。
工場から出る鉄屑や、壊れた機械が無造作に並び、
まるで終戦直後の、焼け野原に無数に散らばる戦艦の残骸と、
機械の侍達の死体の只中を歩く様な、苦くも懐かしい感覚を覚える。
貧民街の名に相応しく、薄汚れた衣服に身を包んだ子供や、
物乞いをする老人等、正に街の栄光の影其の物であった。
併し、中心部に近付くに連れ、其れだけが此の集落の姿では無い事が解って来る。
捨てられた機械を直し、再利用した物や、廃品を組み合わせ造られた物。
道端で小型の溶鉱炉に鞴で風を送る男達の後ろに並ぶ
一見がらくたの様にしか見えぬ其れ等は、仮令落魄れたとしても
何かを生み出す事を、其の快感にも近い衝動を、捨て切れなかった者達が造った物だ。
見目は悪くとも、上で高値で売られている物等より、或いは良く動くのかもしれない。
其れだけでは無く、何処から仕入れて来るのか、古米や魚、肉、野菜等の食料。
ボロ布を縫い合わせた衣服や靴、装飾品もある。
大小様々な店が軒を連ね、其の辺り一帯は虹雅渓の下町の様な活気を見せている。
戦時中の闇市を彷彿とさせる光景は、闇の底に在る事を忘れさせる程に力強く、
人間と云う種族の強かさを思い知らされる。
思わず立ち止まり、辺りを見回し嘆息していると
矢張り、こうも小奇麗な身形の者は珍しいのであろう。
況してや侍だ。じろりじろり、と好奇の眼差しを四方から浴びせられ、
流石に居心地が悪い。足早に其の場を後にするものの、
何処へ往こうとも彼等の眼は変わらず、半刻もすると疲労が溜まり、
背に、無数の無邪気な視線を感じながら、人気の少ない路地へと入って往った。
この様に人気の多い場所を好む奴では無い。
細い道を汚水の水溜りを避け歩きながら、数日前の会話を思い出す。






貧民街に鬼が出る。
其れだけならば、唯の怪談の類か何かだと、そう思うだけで終わったのだろう。
だが、鬼の容姿に関する事柄を耳にした途端、意識が客人の声に固定される。

金糸の髪に血色の瞳。紅き衣を纏い、両の手の二振りの長刀、角の如し。

「恐れながら、宜しいですか。」

あまりに覚えのある其の姿に、思わず和やかな会話に割り込んだ。
客人本人は、唯の面白い噂話の心算であったのだろう。
突然、今まで彫像の様にじっと座っていた護衛の発した言葉に、
怪訝そうな表情を浮かべた。

「何じゃ、ヒョーゴ。」

話に水を注された御前が、不機嫌そうな顔で此方を見ている。
客人は大切な商いの相手。そして、御前と同じく際限の知らぬ欲を抱く同業者なのだ。
隙を見せれば飲み込まれる。己と同類であるからこそ、其の事を理解している御前には
仮令隣人であろうとも、己の僅かな綻びですら見せる事は、命取りに繋がるのだ。
跡取りであるウキョウを、未だ商談の席に置かないのも其の為だ。
あの男は、女遊びに現を抜かす唯の道楽息子の様に見えるが、何を考えているのか解らない節がある。
御前は己の跡を継ぐにはまだ早いものの、商人に必要な、世の流れを読む力に長けた良い息子と思っているのだろうが、
あれが此の街の差配と為れば、恐らく途端に其の偽りの仮面を剥ぎ取りに掛かるだろう。
御前の、今の地位を磐石な物とし、更に高みを目指す為の体裁を守る行為が、
現状を繋ぎ止める、最後の砦になっている事に、御前はまだ気付いていない。
こうした席に身を置く事を許されたとしても、雇われて日の浅い己は
元々御前の護衛を勤め、今はウキョウの御守りを任されているテッサイ程の信頼を得ている訳ではない。
前以て、御前からの用有る時以外の言を許さぬ、と云われていたにも関わらず
言葉を発した己の非を詫び、逸る心を抑る。

「不躾な振る舞い、お許し頂きたい。其の鬼とやら、二刀を振るうとは真に御座いますか。」
「無礼であるぞ。もうよい。其方は下がれ。」
「まあ、アヤマロ殿。良いではありませぬか。」

気分を害した様子も無く、痩せこけた頬を緩ませ御前を宥める客人の言葉に、
失望の色も露わに此方を睨め付けていた御前も、しぶしぶと云った様子で引下がった。

「用心棒殿は鬼に興味が御有りか?私は貧民街へ降りる事が無い故、直接は見てはおらぬのだが。」
「構いませぬ。もし、御迷惑で無くば、詳しく御聞かせ願えますか。」
「宜しい。では、一つ。」

客人の語る話は、驚きを深めるばかりであった。
一月程前、何処からとも無く現れた其の鬼は、
食事も睡眠すらも碌に取らず、唯ぼうとしているばかり。
併し、時折ふらりと集落を徘徊し、生を繋ぐ為流れて来た侍崩れを見付けては
問答無用に斬り掛かり、終わればまた、何事も無かったか様にぼうとするのだと云う。
虹雅渓に職を求めて集まる侍達とは違い、戦の終わった世に順応出来ず、
当座の生きる糧を求めて流れて来る侍達は性質が悪く、
以前は大なり小なりいざこざが絶えなかったが、其の鬼が来てからと云うもの、
日に日に侍達の死体が増え、己の力量に自信の無い者達は息を潜める様に為り、
少しずつではあるが、そうした揉め事も減って来ているらしい。

「如何に厄介者の集まりであろうと、民は生かさず殺さずが鉄則。
 此方が手を出す事も無く、不逞な輩を排除してくれると為れば、何とも有難い事。
 併し、此れが長く続くと為ると、些か厄介ではあるのだが。
 此方としては、侍達の抑止力以上の物は望んではおらぬ。
 早々に対処せねば、噂等、どの様に流れるか分からぬ故の。」

近頃では、貧民街で造られる廃品を再利用し、造り出されたがらくたや模造品を
安値で手に入れようと街を訪れる技術者達も居るのだと云う。
設備や生活水準の低下さえ気にしなければ、他の街へ移住しても十分に暮らして往けるだけの金が手に入る。
中には戦場で鍛えた腕を活かし、住み着いた元工兵等も居るらしい。
以前は、街の浄化の為そうした輩を一掃すべく、実力行使に出る意見も出ていたと云うが、
生きる縁を求め集まった者達が、更に民を呼び寄せる事に為ると分かれば、
己の利益の為に利用価値の有る物は、仮令何であろうとも利用するのが商人だ。
身を寄せ合う様に生きる彼等の結束は強く、其の集落を己の傘下に治める為、
今は内部に手の者を紛れ込ませているらしい。鬼の噂も其の者達から齎された物だ。
何れは虹雅渓の街並みの様に、下町らしい活気有る街作りを目指しているとの事だが、
彼の鬼の噂が街の外まで広まれば、人々は恐れ、街へ寄り付かなく為る。
此の差配は、其れを恐れているのだろう。
だが、其の事を此の場で話してよい物なのだろうか、と思う。
仮にも、同じく民を集める事に長けた御前の前だ。
隙を見せる事は御法度の筈。何やら謀でも廻らせているのだろうか。
御前も其の事に思い至っているらしく、僅かに緊張が感じ取れる。
其の御前の様子に、客人は元から笑っている様な顔に更に深い笑みを浮かべた。

「何やら御心を煩わせてしまったのであれば、申し訳ありませぬ。
 実を申しますと、既に彼の鬼を退治すべく、貧民街の侍達を雇い、
 幾度と無く襲わせておるのですが、全て返り討ちに合う始末。
 用心棒として迎え入れる事も思案したので御座いますが、
 中々如何して、有り過ぎる力を抑える術を持たぬ私には
 手を出す事も出来ませぬ。」

どうしたものやら、と嘆息する客人は、本当に困り果てている様に見える。
一つの街を背負って立つ身ならば、腕に覚えの有る護衛の一人や二人は既に雇い上げているだろう。
しかし、其の者達を村へと送り込めば、今まで慎重に行動して来た全てが意味を失う事に為る。
常に差配と行動を共にする己の様な者達は、あまりにも顔が知れ過ぎている。
今の段階で街の介入を覚られるのは、唯でさえ警戒されている村の住人達へ
更なる不信感を植え付ける事に為りかねないのだ。
己の一言から始まった愚痴とも取れる話は、客人の苦悩を深める事と為った。
こけた頬に差した影は、生白い顔を更に病的に見せ、窪んだ瞼の奥の眼は空を彷徨っている。
豊かな街を作り上げる。差配と云う地位の重圧は己には計り知れない物があるのだろう。
立場を同じくする御前だけが、ふむ、と感慨に耽っている。
暫しの沈黙の後、場の空気を払う様にするりと口から流れ落ちた己の言葉に
己ですら困惑した。

「もし宜しければ、私に其の鬼、任せては頂けないでしょうか。」
「何と。」

唐突な申し出に、客人は一瞬戸惑いを見せる。御前も、己の用心棒の言葉に僅かに眼を見開いた。
当然だ。身を守る為に召抱えた用心棒が、主を置き、他の街の問題に口を出す等、
身の程も弁えぬ、思い上がった行為だと思われても無理は無いのだ。

「何を云い出すのじゃ、其方。」
「申し訳有りませぬ。と申しますのも、私は彼の鬼を存じておるからなので御座います。」
「真かの。」
「恐らくは。先程の鬼の話、嘗ての大戦の折、戦場を共にした朋輩の様相と瓜二つなのです。」
「其れは又、奇妙な巡り会わせで御座いますな。」

口元を長い袖で隠し、何やら思案している様子の客人を横目に、御前に向直ると
僅かに落ちた眼鏡の淵を指で押し上げた。

「鬼が彼の男だとするならば、私にお任せ頂ければ、或いは連れ帰る事も。
 腕は確か。テッサイ殿を若の護衛と為さってから、
 私一人では心許無いと申されていた御前にも、私と彼の男が揃えば、
 強固な護りと為りましょう。如何に御座いますか。」
「其れは願っても無い。アヤマロ殿、私からもお頼み申します。」

借りを作る事に為ってでも、今の裡に不安要素を排除しておきたい客人は、
突然舞い込んできた幸運に、縋り付く様に必死だ。
四つの眼に見据えられ、うぬ、と唸りを上げていた御前も、やがて諦めた様に息を吐いた。

「良かろう。此のヒョーゴ、御貸ししよう。其の間、余の護りはテッサイに任す。
 但し、然う長くは此方にも支障が出る故、十日で始末が付かぬ様であれば戻れ。良いな。」
「は、心得まして。」










彼の差配と連れ立って街に着くや否や、こうして貧民街へ降りたは良い物の、
想像以上に荒んだ集落の様子に、先程見て来た上の街との差に思わず溜息が漏れる。
鬼の噂を聞く為村人に近づけば、客引き達に囲まれ、話を聞く事も儘為らない。
稼ぐ当ての無い者達は、日々の糧を得る為に春を鬻ぎ、腹を空かした童は
肥え太った腹を揺すり歩く男の手から零れ落ちた米粒にすら群がり、まるで獣を見ている様だ。
此の小さな集落の中にも確実に存在する貧富の差が、村を育て上げる要因に為っているのだろう。
客を集め、より富を得た者だけが腹を満たす。
今の世の縮図の様な此の村には、生き抜く事への貪欲さが満ち溢れている。
手段は違うが、其の執念にも似た姿は、嘗ての侍達に通じる物が有る様に思える。
幼い頃は、そんな力強さばかりが眼に付いて、眩しく、輝いて見えたものだった。
併し、泥沼化して往く戦況は、人を狂気の渦へと引き込んで往く。
身体と共に成長した心が、現実を透過する事を忘れて、初めて己は世の流れを知った。
戦場で死する事こそ、侍の本分。生きて帰るは、恥と知れ。
今思えば恐ろしい考えであるが、当時は其れこそが全てで有り、
己も、然う在る事を当然とし、刀を振るっていたのだ。
だが、生きる事を選んだ己には、最早振り返る事の無い過去。
生き恥を晒していると蔑まれようと、知った事では無いのだ。

だが、彼の男はどうだろうか。
己以上に刀に執着していた男にとって、商人達の物と為った今の世は
正に、生き地獄と同じなのかもしれない。
確かに、男の剣は狂気と背中合わせの危ういものがあった。
強い相手と見え、刀を交える。其の刹那の遣り取りが、男にとって唯一、生の充足を得る瞬間だったのだ。
併し、己の知る彼の男は、斬る事其の物に楽しみを見出す様な、そんな男では無かった筈だ。
長く共に在ったからこそ、客人の齎した話に、己は驚きを隠せなかった。
其れが彼の男であると云う確信は無いと云うのに、次の瞬間口を吐いた己の言葉が
其の驚きを物語っていた。何故、あれ程までに必死に為り得たのか、
考えても考えても、其れは奈落を覗くが如く、延々と同じ場所を廻り続けるばかりであった。

腹を切る事もせず、今の世を生きる事もせず、此処で男は何をしているのか。

未だ日も高いと云うのに、薄闇を孕んだ地の底は、彼の男を埋め、深く深く落ちて往く。
闇に慣れた眼で見遣る世界は、偽善的な優しさで己を包み込み、引きずり込もうと、其の腕を伸ばして来る。
不意に、男を見た最後の日、紅い背の記憶が頭を過った。
深淵の気配を背後に感じ、暗く淀んだ思考の奥底へと落ちかけた時、
水面に跳ねる水滴の如く、ぽつりと落ちた現実が、
己の意識の波紋を広範囲へと広げ、漸く浮上した己の耳に飛び込んで来たのは、
卑しく嗄れた嘲笑であった。






声のする方へと歩みを進めると、唐突に開けた場所に出た。
開けた、と云っても数畳分程であり、併し廃品や其れを利用した住居が
狭い空間に一度に押し込まれた様な、路地と云える様な路地すらあまり見られない程に混雑した
此の村の中では、其れでも十分に開けた場と云える。
再び上がる高笑いに、見れば村にしては珍しい程に体格の良い男が数人、並ぶ様に立っていた。
腰や背に有る刀で、男達が侍であると分かる。話に聞いた、糧を求め流れてきた侍崩れだろう。
薄くなり始めた頭を撫でながら、黄色い歯を剥き出し笑う男が、足で何かを突付いている。
よく見れば、男達の足の間からだらりと伸ばされた細い足が覗いていた。

「お前ぇさん、此の所随分とでかい顔してるらしいじゃねえか。」
「村の連中も死体の処理に困ってるらしいぜぇ。犬の餌にもなりゃしねえ。」

下卑た笑みで頬を引き攣らせる男達の眼は、異様な程に輝いている。
力こそが全てであった戦場を生き抜いた者が持つ、自信に満ち溢れた顔は
見る者が見れば、余裕と云う名の思い上がりでしか無く、
此れも戦の残した汚点の一つなのか、と自尊心の欠片すら見受けられない男達を見遣り
嘆息するも、侍としての誇り等、とうに捨てた己が云えた事でも無いだろう、と
腰に下げた刀の重さを感じながら、気配を殺し事の成り行きを窺う。
男達の足元に居るのはどうやら男の様であったが、がらくたの影に隠れ、全身は見えない。

「お前ぇを始末すれば、上から報奨金が出るって話だぜ。」
「どーよ。俺等の生活に貢献しろって。上手く往けば上に取り入れるかもしれねーんだよ。な。」

報奨金、と云う言葉にまさか、と其の薄汚れた足をよく見れば
一目では気付かぬ程に、僅かに足に掛かる紅い裾に眼が釘付けに為る。
其の所為だろう。一瞬、身体が動きを忘れた。

「おい、聞いてるのか。もう死んじまってるんじゃねーだろうな。」

すらりと抜き放たれた刀の切っ先が、生存を確認しようと男に向けられた、
刹那。

今まで微動だにしなかった足が、雷撃の如き素早さで踏み出されたかと思えば、
はばきの音と共に血煙が上がり、景色を紅に染め上げた。
正に蒼天の霹靂。男達は、己が身に起こった事にすら気付く事も無かったであろう。
聞き覚えの有る水音が反響し、痙攣を繰り返す男の首から吹き出す
血潮の鮮やかな赤が空間を支配する。

嘗ては陽光に輝き、秋の山々を彩る公孫樹の柔らかさを思わせた髪は
穢れを受け、重く頬に張り付いている。
美しく鮮明な紅であった衣は擦り切れ、くすんだ丹色と為り、
黒々と血の滴る様は、幾度と無く見てきた姿であると云うのに、まるで悪い夢の様だ。

時を止め硬直した意識を奮い立たせ、血の海に足を踏み入れた時には
首から上を失った男達の最期の足掻きも止んでいた。

心地よい筈であった静寂の、何と息苦しい事か。

併し、彼の男を目の前にした己を突き動かす、憤りにも似た衝動は
此の重苦しい空気を振り払い、履物を濡らす血糊すら気に為らない程に脳を侵していた。

「御主、何をしているのだ。」

男の傍に立ち、乱雑に伸びた髪に隠れた眼を見据えても
己の存在に気付いていないかの様に、虚ろな眼を壁に向けている。
何も捉えていない其の眼は虚無を映している。
男の眼前に移動しても其れは変わる事は無く、
己の眼を通り抜ける男の眼は、温度を持たぬ硝子玉の様だ。

「キュウゾ、」

身体の奥を走る粟立つ様な感覚に、思わず手を伸ばし
肩を掴もうとした時、



視界の隅に迫る、白刃の閃きを見た。












2006/10/20


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