グロい表現が多々有る上にネタバレも含みます。平気な方のみどうぞ↓
































紅い紅い血潮が砂の大地に染み込んで往く。
光を失った瞳は、未だ潤いを湛えているが、乾いた風は何れ
白濁して往く其れを、眼窩の奥底へと押し込み、萎びた塊に変えるだろう。
嘗て、しなやかに流れる様であった肢体も、全身の力が抜け去った眼前の其れは
意思、魂とも云えるのであろうが、人を人、生物を生物たらしめている根源的な物を失った
歪で不完全な唯の肉の塊であった。







出立は、と問うと今直ぐに、と答えた男に先に往くよう伝えた。
男達は野伏り共からとある村を救うべく、先を急ぐ旅だ。
神無村、と云う村だとは知っていた故、万が一、此の脚ならば容易無い事であろうが、
追着けずとも、村には辿り着けるだろう。
何故、と云う問いに無言で返し、其の場を動かずに居ると
不遜な物を見る眼で此方を窺う百姓の女に促され、
男達は、足早に戦いの場を後にした。

手で砂を掬うと、さらりと指の合間を零れ落ちて往く。
暫し然うして地を掻いていたが、此れでは埒が明かないと、板状の物でも無いか
付近を探しに歩いた。幸い、野伏り共と一戦交えたばかりだ。物には事欠かぬであろう。
未だ煙る雷電を横目に、此れは大き過ぎるか、と歩を進めると、傍で
鋼筒がごろりと其の身を横たえ、中の人間と共に斬られた腹を曝していた。
十数機は有ろうかと云う残骸の、其の何れもが油と血を垂れ流し、
肉と骨を断たれた身体から、赤黒い臓腑が覗いている。
半ば千切れかかった腕が、虚空を掴むが如く伸ばされ、何を掴む事も無く血の海に沈んでいた。
其れを何の感慨も無く見遣り、二尺程距離を置いて立つ。
鋼筒の傍らに、鋼筒用の大刀が転がっていた。巨大な鉈の様な、相手を一刀の下に斬り伏せる為の、
機能のみを重視した其れを手に取る。此れで構わんだろう、と
踵を返そうとすると、視界を其の場にそぐわない、美しい灰みの緑が掠めた。

鋼筒の腹の中を覗くと、苦悶の表情を浮かべ、物言わぬ肉塊と化した男の傍らに其れは有った。
血に濡れ、穢れを受けて尚、清浄な輝きを失わず、
陽の光を反射し、淡く其の存在を主張する其れ。
青磁の徳利であった。仮令都の加護を受ける野伏りと云えども、然う然う手に入る物では無い。
況してや足軽程度の身分では、到底手の届かぬ代物だった。
何処から盗んだのか、或いは野伏りに身を堕とす以前は其れなりの武家の出であったのか、
其れは知る由も無いが、死した男にとって最早意味を持たぬ過去であった。
手に取ると、たぷん、と音を発て、中の物が揺れる。
恐らくは酒であろう。仕事の合間に、暇を見て楽しむ為に持っていたのであろうか。
己には関係の無い事だ。血を流し、臓腑を乾燥させて往くだけの物に為って
初めて顔を合わせた者を悼んで何になると云うのか。
徳利は手に持ったまま、刀を肩に担ぎ、其の場を後にした。

岩の絶壁の下に戻ると、先程と変わらず男は岩壁に背を預けていた。
幾らか乾いた血が、口の端から咽下まで濡らし、青黒い唇を更に黒く染め上げている。
男の死体の前に膝を落とし、男の上着の内側を探る。
何かと細かい処に気を使う男であった。悪く云えば神経質だった。
常に手拭を持ち歩いていたのは、男を知る者ならば誰でも知っている事で、
容姿は派手だが頼れる男だ、と御前や側近達に云われていたのは
其の細かさが功を奏していたからなのだろう。
隅を僅かに血に染めた白い手拭を探し当て、青磁の徳利の蓋を開けると、
穢れていない場所に染込ませ、酒の匂いのする其れで口の周りを拭った。
罅の入った眼鏡の奥、意思を無くした瞳が、此方を見ている。
ふと、以前何処かで聞いた話を思い出した。
人間は、総じて「現在」を確実には認識する事が出来ない。
己の意思に依って其の存在を確定している人間は、云わば「過去」の集合体であり、
今、こうしている己ですら、数瞬の間も置かず、絶えず過去へと流れ流れて往き、
「過去」と「未来」の狭間を漂う、曖昧で不確かな存在だ、と云うものだ。
故に、人間は「現在」を持たない。既に過去と為った物を
記憶は出来ても確定する事が出来ないのだ。
ならば、此の男は如何だろうか。
鋼筒の男と同じだ。此の男にとって過去は意味を持たない。
此の場に有る身体は生を重ねて来た過去の証ではあるが、
其れは意思を持たぬ肉塊であり、臓腑と汚物の詰まった皮の袋と何も変わらないのだ。
過去を失い、未来を失った其れは、「現在」其の物ではないのだろうか。
詰る所、此の男は死して初めて「現在」を得たのだ。

妄想だ。現在を得た処で、其れを認識する意思を持たぬ男に、其れは意味は無い。
己で斬った。
此の手で斬ったのだ。
手に、肉を斬り裂くあの感触が残っている。
己の過去の多くの時間を、共に過ごして来た朋友を、此の手で。
後悔する心算は無い。己で決めた事だ。
生きて、みたくなった。
あの侍達と共に在る道を選べば、仮令過去へと過ぎ去って往くだけの
儚い物であったとしても、己が裡に猛る空への熱望を、想いを
未来へ繋げる事が出来る様な気がした。
あの、未だ空を生きている様な瞳を持つ男と剣を交え、
生と死の極限の狭間で、己の存在を、己で認識し確定する事が出来れば、
唯、生きていただけの己を、あの頃に立ち戻らせる事が
出来る様な気がしたのだ。もう一度、あの空に在った頃の様に。

だから斬った。生きる事を妨げようとする此の男を。

だが、と口を拭っていた手を止める。
だが、何故己はあの時、確実に此の男を殺さなかったのか。
己の腕ならば、一瞬で息の根を止める事が出来た。
首を落とせば、死を感じる暇すら与えずに殺せたと云うのに。
そうしていれば、無駄に苦しませずに済んだのだ。
無意識の裡に、躊躇いが出たのだろうか。
もう戻る事の出来ぬ空を想い、無気力に生を繋いでいた己に
共に来い、と手を差し伸べた此の男を斬ってまで
生きる意味等、己に有るのか、と。

しかし、結局己は此の男を斬った。生きる事を、選んだ。

馬鹿め、と男は最期に言残して死んだ。
笑っていた。生きてみたくなった、と云う俺を。
嘲笑では無かった様に思う。
此の男は理解していたのだろう。此の男も、嘗ては空に在ったのだから。
望まぬ筈が無いのだ。あの男の様に、空に在るが如く生きる事を。

眼鏡を外し、見開いた儘時を止めた瞳を、瞼を降ろす事で隠した。
決して穏やかとは云えないが、苦痛の色は幾らか和らいで見える。
口を拭う事で少し落ちた群青の口紅の下から、血の気を失った唇が覗いている。
傍らに置いた儘になっていた徳利を手に取り、酒を口に銜む。
首筋に固まった血と共にこびり付いている、濡烏の髪の一筋を払い、
砂塵を纏う風に依って乱れた髪を軽く整えると、
空いた手を顎に添え、口を付けた。
つう、と顎を伝い胸元に染みと為って落ちて往く。
息を吐き、眼前の男の額に己の額を合わせる。
冷たくなった額は、唇と同じく熱を忘れた唯の物体でしかない。
其れでも。
其れでも、瞼を閉じれば浮ぶのは、血を滴らせながらも
此方を見て、仕方の無い奴だと、微かに呆れの混じった笑顔で。




鋼筒の大刀を使い、掘った穴に男の身体を横たえる。
砂を掛ける前、もう一度男の顔を見て、脳裏に焼き付けた。
此れから先、戦場に身を置く己を、後悔しない為に。
人間が過去其の物だと言うならば、移ろい往く時を
未来から過去へ確かに繋いで往く為に、
己の為に命を無くした男に、恥じぬ生き方を。
歩む事を止めない。決して。
いつか、剣を捨てなければならぬ日も来るだろう。
其れまでは、生き続けよう。男の分も、風の駆け抜けるが如く。


風に掻き消された侍達の足跡を追い、砂原を駆け出す。
彼の男の血を吸い、其れでも潤う事の無い荒野を、真直ぐに。
天に聳える石柱の合間に、一本の刀が刺してある。
小山の上に悠然と其の存在を落とす刀の下に、青磁の徳利が淡く空を映している。
草の一本も生えぬ荒涼とした大地の上に、其れはまるで
手向けの花の様に、風を受け、雲の揺らぎを映して輝いていた。














あとがき

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