小説設定です。ネタバレ上等。「空蝉の見る夢」の続きの心算です。平気な方のみどうぞ↓


































また戦が始まる。

月明かりの照らし出す神無村の隅々にまで、霧の様に漂う緊張感は
あの大雨の夜、一人の侍と、数え切れない程の機械の骸と共に終わったと思われた其れで、
併し、静謐を纏う夜の空気に溶け込む様に、ひっそりと其の存在を闇に沈めていた。
其れは、一度戦を経験した村人達の自信の表れなのだろう。
恐れが無い訳では無い。強襲揚陸艦の袂、未だ異臭を放つ焼けた骸を思えば
今度こそ、己もあの様に焼かれて終わるのでは、と背筋を走る寒気に身を震わせる者も多い。
其れでも弓を取り、彼方より現れるであろう強大な敵に対し、眼を背ける事無く在れるのは、
あの侍達が残した戦う術と、己にも何かを守る為に戦えるのだ、と言う強い意思を己の裡に感じているからなのだろう。
其の意思を表すかの様に、小さく音を立て爆ぜる篝火の欠片を横目に、
オカラは村外れのギサクの家に向かい、歩を進めていた。
母には此処に居て、野伏りが来たら直ぐ、共に水分り様の家に往ける様に、と言われてはいたが、
大人達の放つ熱に浮かされた様な気に、先に往っている、と云残して家を飛び出して来たのだった。
別段、恐れは感じていなかった。其れは、オカラの幼さ故か、其れとも目の前にある危機に実感が持てぬ為か、
当の本人にも解ってはいなかった。唯、仮令敵が迫っても、己は其れを見据え続けるのだろう、と
其れだけは確信を持って感じていた。

オカラにとって、世界は不思議に満ち満ちていた。
森も、水も、空も、己を育む大地も、当たり前に其処に在るのに、常に新鮮な景色を其の眼に映していた。
森は、何故こうも青々と茂っているのだろう。
水は、何故流れ、日の光に照らされ輝くのだろう。
空は、何故高く高く、雲を抱き広がって往くのだろう。
大地は、何故生きとし生ける者を優しく包み、時に裏切るのだろう。
そんな疑問が頭を過る度、オカラは楽しくて仕様が無くなるのだ。
己が居る世界を、もっと知りたい。
もっともっと世界を見たい。
観察する事が、彼女の全てで在り、知る事が喜びであった。
そんなオカラが一番関心を寄せているのが、人間だ。
人間は不可思議だ。人間は複雑で、脆い生き物であると云うのに、
此れ程迄に繁栄し、世界に溢れている。
一体此の矮小な生き物の何処に、其れ程の力が備わっているのか。
人間、とは一体何なのか。世界の広がりを捉える、此の果ての無い心とは何なのか。
オカラが知る世界は小さい。村の外には出た事が無いのだ。
だが、時折やって来る物売りや旅人達の語る外の世界は、正に彼女の関心を突いた。
コマチ達が街へ往く、と云った時、己も往きたい、本当は然う思っていた。
けれど、然うはしなかった。彼女は己の分を知っているのだ。
己は農民として生まれた。己は此の地で生き、此の地の土に為る。
幼いながらも、然う感じていたからこそ、共に連れて往けとは云わなかった。
コマチから届く文を読む度、此れで良かったのだ、と遠い世界を想った。
一度世界を知ってしまえば、己は二度と村には戻れまい。
世界の広さに囚われて、己の周りを見る眼を失う。此の暖かい場所を失う。
其れは嫌だ、と唯其れだけが己を此の地へ繋いでいる。
だからこそなのだろう。
視界の隅、黒い森の一点を染める白に、はた、と足を止めた。

音も無く暗闇に融けて往く其れは、白々しい迄に月の光を吸い込んで、闇を刳り貫いている。
剥き出しの肌にきつく巻かれたさらしは、零れ落ち掛ける命を何とか繋ぎとめているかの様で、
痛々しく、だが其れは痩せた身体を尚一層弱々しく見せていた。
此の戦を連れて来た男に、オカラは興味を隠せないでいた。
ギサクの家で手当てを受けていた男は、傷に障ると云うのに、只管に話し続けていた。
己の目的、何故己が未だ生きているのか、敵の大将が何を考えているのか、
肥大した命を削る様に吐露して往く男は、然うする事で己を在るべき姿へ還しているかの様に
少しずつ活力を取り戻していった。そして全てを吐き出すと、泥に沈む様に眠りに落ちていった。
痛みに耐えながら語り続けた男は、併し穏やかな眼をしていた様に思う。
だが、オカラは確かに見たのだ。
漸く解き放たれた、と云う様に大きく息を吸い込み、意識を無くすまでの僅かな間、
其の眼は、天井では無い、何処か違う場所を見ていた。
あの眼をオカラは知っている様な気がするのに、其れに思い至るにはあまりに僅かで、
脳裏を掠めたものを捉える間も無く、其の眼は瞼に隠されてしまった。
夜風に靡く黒髪が森に同化して往く様を見詰ながら、鎮めていた好奇心が頭を擡げるのをオカラは感じていた。
あの眼は一体何を見ていたのだろう。
オカラは、其の本能に近い感情を小さな足に乗せ、暗闇へ分け入って往った。


随分歩いただろうか。彼の男を見付けた時には、既に森は終わり掛け、
闇を孕んだ木々の合間から差し込む月明かりがはっきりと己の影を地に刻んでいた。
男は崖の際に立つ木に背を預け、腕を組んでいた。
よく見れば、男の居る場所から少し離れた所に橋が見える。
其れ程遠くには来ていなかったのか、とオカラは驚いていた。
暗闇は方向感覚を、そして己の心をも惑わしていた様だ。
よく見知った此の森も、夜ともなれば己の侵入を拒み、恐れを抱かせる。
また一つ、己は世界を知ったのだ、とオカラは何やら満足気に頷いた。
さて、次は本題だ、と男の背を見遣る。

「何だ。」

そろりそろり、と気配を殺し近付くと、静かだが威圧的な声が響いた。
矢張り侍、子供の浅知恵等とうに知れている、と云わんばかりに
其の一声だけでオカラを突き放そうとしている。
他の子供ならば、震え上がり一目散に駆けて往ってしまうだろう。
しかし、今のオカラは己の好奇心を満たす事のみに意識を向けている。
恐れる様子も無く男の傍に立つと、じっと男を見詰た。

青白い肌に群青の紅。結い上げられていた髪は無造作に、だが流れるように垂れ、
一部分だけ肌を曝した頭を、風に遊ばせるままにした髪が一筋、二筋と隠しては、ふわりと舞って肩に落ちる。
初めて見た時の、派手な歌舞伎者の如き様相とは打って変わり、まるで、以前一度だけ眼にした
柳の下に白く浮かび上がる幽鬼の絵図の様を、男は体現するかの様であった。

「去れ。子供はさっさと寝ろ。」

此方を見もせず吐き捨てると、男は何事も無かった様に白い影となってぼう、と遠くを見詰た。
男の視線を追うと、橋向こうの森と、星の瞬く夜空が広がっている。

「お前ぇ、何見てんだ?」

問い掛けに答える様子も無く、男の瞳は唯静かに景色を映し、だが景色の向うに確かに何かを見ていた。
こんなものではなかった様に思う。
天井を通り抜け、空すら越えて往く様に、男の眼は何を捉えていたのだろうか。
ふいに、其れまで其の小さな頭の奥底に落ちていた何かが浮上し、確信に変わる。


「お前ぇ、誰、見てんだ?」


ふっ、と男の纏う気が乱れた様な気がした。
ゆっくりと首が動き、僅かに見開かれた眼で此方を見遣る。
思えば、男が此の村に来てから、オカラは初めて男と眼を合わせた。
薄の様な、蒲公英の様な、淡い色硝子の向うの瞳が確かにオカラを捉えている。
大地の色だ。米を育む稲田の、澄んだ水を湛える柔らかな土の色だ。





オラはこの眼を知ってる。

例えば、あの日、こっそりと覗き見ていた水分りの家、婆様に「忍びとおせるだか」と聞かれた時の、
水分りの姉様の眼だ。

例えば、サナエの櫛を見詰る、リキチの眼だ。

例えば、戦に備えるカンベエを見詰る侍達の眼だ。

そして、例えば、お母がお父を、お父がお母を見る眼だ。


どれもほんの少しずつ違う色をしてっけど、其の奥に在んなは、結局皆同じ色だ。

この気持ちさ、どんな名前が有るんだか、オラにはまだわかんねえ。


だども、きっとどんな気持ちよりも、ずっと強い想いだ。

誰かを求める、人の想いだ。







はた、と男が己の様に気付いたのか視線を逸らし、
止まっていた時が、動き出した。
ほんの僅かな時間だったのだろう。だが、オカラは全てを察した。
此の男が求める者が誰なのか、其れは解らない。
けれど、オカラは満足だった。
また一つ、己は知った。人間の奥深さを知った。それでいい。
くるり、と踵を返し、森の奥へと歩み出す。
背後にそっと此方を見遣る視線を感じたが、直ぐに其れは木々に阻まれ
弾む様に歩くオカラを留める迄には至らなかった。
後数刻もすれば、空が白み始める。
いつ戦が始まるか分からないのだ。ギサクの家の方角を思い浮かべながら
歩む足は、何時しか駆け足に為っていた。
見据えなければ。
戦の匂いが、直ぐ其処まで漂って来ていた。








カツシロウを乗せて空を切る巨大な木の矢が、煙の尾を引いて落ちて往く。
放物線を描く煙の向うに迫る敵の本拠地は、禍々しいまでに荘厳で、
周りで爆ぜる野伏り達の炎は、断末魔の悲鳴の様に赤く、
併し、まるで都を華やかに彩る花火の様だ。
カツシロウらしい詰めの甘さを笑うと、ヨヘイに追い払われ、仕方なく水分りの家を目指した。
以前の戦は水分りの家で過ごす間に終わってしまった。今度こそ見届けたいと思っていたオカラは、
其れでも少しでも多くの物を見よう、と足を止めようとした。

其の時の情景を、オカラは忘れないだろう。

腹にさらしを巻き、あの木の下に在った時と同じ姿で歩く男の足取りは、覚束無いものの確かに地を踏締め、
オカラの横を擦り抜けて往った男の眼は、遥か遠い一点を見据えていた。
他を見ようともせず、唯只管に見詰る其の先には、更に其の巨体を主張する都が迫る。
早亀の手綱を握り、傷の痛み等忘れたかの様に軽く背に跨ると、一瞬動きを止め、都を見た。
いや、あれは都を見ているのではない。
此方に背を向けているが、其れでもオカラには分かる。

男は、今あの酷く美しい瞳をしている。
誰かを、求め、焦がれる事を知っている男なのだから。

オカラは其れを知っている。知っているのだ。


「しししし。んだ。往け。」



駆け出した早亀が、掠れて見えなくなる迄、そう時間は掛からないだろう。


これだから人間は止められない。
知る事を欲する事を止められない。
人間は複雑で、其れ故に愛しいのだから。


己も何時の日にか、誰かを求める事を知る日が来るのだろうか。
そんな未来を思い描きながら、オカラは戦場の風に靡く黒髪を
其の瞳に焼き付ける様に、見詰続けた。



















あとがき


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