小説設定です。ネタバレ上等。捏造甚だしいです。平気な方のみどうぞ↓

































夏が終わる

火が消える

命 爆ぜろと直叫ぶ

けれど 此の身は 蚊帳の外

草間に朽ちる

眼の虚
















眼前に閃く二筋の閃光に、眼が覚めた。
耳を打つ荒い息遣いは己の物であるのか、と手を額へ遣ると
ぬるり、と汗が絡まり、不快な湿りが全身を覆っている事に気付いた。
動悸が恐ろしい程に早い。咽が渇きを覚え、併し身体は思う様には動かなかった。
指に力を込める。親指、人差し指、中指、と一つずつ折り、開く。
開いた掌を握り、腕を引き寄せる。其の動作の一つ一つを脳裏で数える裡に
肺が正常に酸素を取り込み、己を正しく認識出来る様に為る。
瞼の裏に焼き付く白刃に、自嘲じみた笑みが浮んだ。
夢寐の境に在って尚、彼の男は己を虐げるのか。

重い身体を起こすと、掌に微かに人工的な振動が伝わって来る。
嘗て、空に在った己ですら遥か上空に仰ぎ見る事しか無かった場に、
小さいながらも、部屋を宛がわれている此の状況に、矢張り慣れる事は無い。
若、と呼ばれ、周りの者全てに持て囃され、甘やかされていた男は
裡に秘めた、憎悪を纏う狂気のみを基でに、世の頂点へと上り詰めた。
あの軽薄な笑みの裏側に在る、壮絶なまでの強固な意志に戦慄を覚えたのは
つい先頃の事であったと云うのに、今や其の意志其の物が凄まじい勢いで世界を覆い、
己の与り知らぬ処で、己の誇りですら
唯一人の男の掌で弄ばれる世が来ようとしている。
其れを知りながら、己の為だけに此の場に在る己の、何と狡猾な事か。
全てを終わらせる事の出来る位置に在りながら、然うする事をしないのは、
命を救われた恩義の為か、民草が飼い馴らされ、己が飼われている事に気付く事無く、
其れで世が事も無く廻って往くのだとすれば、其れは不幸では無い、と思えるからなのか、
其れとも彼の男との再戦以外、己にとって意味を為さぬ為か。

否。
其れは詭弁に過ぎない。 本当は理解している。己に問う必要等無い。
理解しているにも関わらず、認める事が出来ない。
あの時、己の思う侭に生きれば良い、と御前に諭されたあの時、
己は答える事が出来なかった。
侍で在りたい。其の想いは、戦の終わりから十年の月日が過ぎ様とも、変わる事は無い。
我等と共に来ぬか、と問われた時、頑なに侍で在り続ける事を止めぬ男の眼に
久しく忘れていた滾りを覚えたのも、又事実だ。
若にとって己は既に必要な存在では無い事に、遣る瀬無さと、微かに憤りすら感じていると云うのに。
其れでも、此の場を離れず、彼の男の許へ往け、と云う若の言葉を待ち続けているのは、
恩義の為等では無い。
其の言葉に縋る振りをしているだけだ。
此の場に、「従わざるを得ない理由」を持つ人間の居る此の場に、長く在る為だ。
命を救われたのだ、と己の存在に尤もらしい意味を持たせる為だ。
侍で在りたい、思う侭に生きたいと、然う願い続ける事で、己に突き付けられている事実から
眼を背ける口実を作っているだけだ。

脳裏を深紅の影が過る。

解っていた。最初から。


俺は、侍で在る事を、








「糞っ、」

畳に叩き付けた拳は、僅かな痛みも感じない。
眼に触れぬ様付けた闇色の手袋の奥に在る、己の弱さの証は、
己の熱を奪い、其れでも冷え冷えとして其処に在り、
触れる事で生命すら吸い取るかの様に冷たい。
神経を繋いでいる為、斬られれば痛みを感じる。
だが、所詮其れは紛い物でしか無い。
接続部から己を侵す、己を絡め取る意思。其れは常闇だ。

月明かりすら入らぬ、暗く、陰湿な此の部屋依りも更に深い闇に
恐れと共に安堵すら感じる己を、一つ舌打つ事で奮い立たせ、
部屋を出た。






誰も居ない長い廊下を音も無く歩く。何処へ往くでも無く、
未だ覚え切れぬ道を知らぬ方、知らぬ方へと歩を進めると
細部まで金を掛けているであろう廊下が、ある辺りから段々と絢爛さを失い始め、
帰る道筋すら解らなくなった頃には、最早其処が先程まで己が居たのと
同じ場所なのか、と疑う程に廃れたものに為っていた。
恐らく此処は下層部、此の巨大な建造物の整備や、
商人達の食事の世話等をする者達の居住区辺りなのだろう。
幾ら嘗ての大本営と云えど、整備をしなければ唯の鉄の塊だ。
況して今の主である商人達は、飯の炊き方すら碌に知らぬ、己で身の回りの事をする、と云う事に
思い至らない者達だ。然う云った労働者無くして、此の大店は飛ばない。
彼等の夜は遅く、朝は早い。恐らく此の時間でも誰かしら通るだろう。
後で道を聞くか、と更に先へと進み、突き当たった先、眼前に現れた扉を開くと、
唐突な風圧に、一瞬眼を閉じた。
眼下に砂の大地が広がる。後方を見遣ると、比較的遅く移動していると云うのに、
其の巨体に巻き上げられた砂塵で、景色が掠れて見える。
下男や下女達が使う通路なのだろう。簡素な階段が上へ下へと続いている。
錆付いた低い手摺のみの危うい造りで、此れでは何れ死人が出るな、と思いながら
商人達には興味の無い事か、と踊り場に腰を下ろした。
遥か地平線の彼方から、淡く空が色付き始めている。朝が来る。


御主は今、何処に居る


風に舞う金糸の髪が、景色に投射される様に掠めて消える。
昔、遠く褪せた黄金の時代の終わり、何も無い大地に突然放り出され
我等は漸く自らの為した事を知った。
其の時、既に世は商人達の物と為り、同時に平民達の物と為っていた。
侍は、居場所を失った。
皆が、遠い空を想い、そしてある者は、遣り場の無い焦燥を抱え果てて往った。
だが、己は生きる為に商人に付く事を選んだ。
流れ往く世に順応する様に、誇りを捨てた。
未だ刀を握り続ける此の腕は、最早侍の物では無くなってしまった。
併し、彼の男は違う。
何時だって、其の眼は空を映していた。


何故、御主は今此処に居ないのだ


彼の男の求める物が、此処に無い事等、百も承知している。
御前を裏切り、己を斬ってでも、欲した物は
侍で在ろうとする事、唯其れだけなのだ。
在るが侭に生きる。そうあれかし、と叫び続けていたのだから。
声も無く、心の底から、夏の日差しに響き渡る蝉時雨の様に。
それでも。


何故、俺の隣に御主が居ない


男が居たからこそ、己は辛うじて嘗ての己を繋ぎ止めていられた。
あの瞳が空を映しているから、己は空を忘れずに在れた。
捨て去った筈の誇りすら、此の身に宿していられたのだ。
なのに。



何故、御主は何時だって

俺を置いて往く







脚の間に黒い染みが落ちる。錆の床を捉えていた瞳と、梔子色の硝子を繋ぐ空間が揺らいでいた。
情けない、と思いながらも点々と広がって往く染みを見詰た。



認めよう

俺は、侍で在り続ける事が、恐ろしい


たった独りで 生きて往く事が 恐ろしいのだ





揺らぐ視界の隅から、淡い光が伸びてくる。
見遣れば、砂原と空の境から徐々に朝日が昇り始めている。
紫色の空に、微かな光を湛えた最後の星が、陽光に依って掠れて往く。
一段と強い風が髪を撫で、瞼に残った一滴を攫って吹き抜けて往った。






会いたい

今一度、御主に


あの空をもう一度俺に見せてくれ

御主と共に在った、あの空を


然うすればきっと、もう恐ろしくはないから










幾らか軽くなった腰を上げる。
夜が明ければ又仕事が始まる。弱い己の心を、守る為に。縋る為に。
何処かに在る彼の男と今一度見える迄、此の世界に在り続ける為に。
取っ手に手を掛け、曙の空を後にする。
扉を閉める直前に滑り込んで来た風を身体に絡め、
暗闇へ続く道を、確かに踏締めて歩き出した。

















あとがき

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