覚えている

夜の静寂に融けるように、ぽとりと落ちるその影を

その髪の一房の、指の間をすり抜ける様を

唇の、青く冴え冴えとした動きを

薄い掌の、黒き蝶の如く舞う流れを


けれど、如かしてそのどの様よりも

なおこの礫の様な脳髄に残り、へばり付く蜥蜴の様に

離れる事も無く、こうして己を静かに揺さぶるのは


お前の声の、其の響きなのだろう








元々、勉学は嫌いではなかった。
書物の黒い文字の連なりは、簡潔で美しいと思ったし、
含まれる意味を読み解くのも、実際人と対するより、言葉の少ない自分には
幾らか容易いものであったからだ。
唯、其の道に進む事をしなかったのは、自分にとって其れが進むべき先ではない、と
確信を持って感じていたからだ。
そう教え込まれていたのもあるのかもしれないが、それでも
自分は剣にしか生きられない、とそう感じている己の心は、確かに己の物であり、
偽る事も、その必要も無い。これは最早己の心、と云うより身体や脳味噌の造りが
初めからその様に出来ているのだと、誰から云われるでもなく思っていた。
戦の世が終わり、形だけは平穏を取り戻しつつある今の世で、
そんな自分が、それでも剣と共に生きられる道を選んだのは
至極当然の事であった。仮令其れが、他の者から蔑まれ、忌み嫌われる
道であったとしても、そんな事は別段どうでもよいと思った。
己は己である、と死する其の瞬間まで其の誇りだけは捨てずに在れれば
そして其の時、此の手に有るものが剣であるのなら、それだけで
自分は満足して逝けるだろう、と。
然し、そうして僅かでも己が道を生きられる場を示したのは
己にとって、唯一友と呼んでも差し支えない男であった。


「如何したのだ、其れは?」

紙を捲る手を止め、声の主を眼だけで見遣ると、己に宛がわれた部屋の襖を閉め
中へと入ってくる男の、意外な物を見た、と云う様な眼と合った。
廊下を此方へ向かって来る気配で、其れが彼の男だと気付いてはいたが
其の様な眼で見られる意味が、よく解らなかった。
問いには答えず、眼を手元に戻すと、その態度を気にする様子も無く
少し離れた場所に腰を下ろし、抜いた刀を脇に置いた。

「御主に書物を読む、等と云う趣味があったとは知らなんだ。」

きゅっ、と云う小さな音と共に微かに酒の匂いが漂ってくる。上質そうな匂いの其れを
猪口に注ぐ小気味良い音が耳を擽る。

「御前が我等に、と。久々にやらんか。今宵は月が美しい。」

月見酒と洒落込もうではないか、と静かだが幾らか楽しげなその声に
開け放たれた障子の外に眼を遣れば、満々と、零れ落ちんばかりに己を主張する丸い月が此方を見下ろしていた。
何時の間にやらそんな刻限か、と少しの驚きと呆れを、両の手で書物を閉じる事で一先ず忘れ、
既に一人で飲み始めている彼の男と連れ立って、縁側に出た。
此れ程一心に書物に集中したのは、あの頃、戦場すら知らず、生家で剣の修行に明け暮れていた頃以来だ、と
手渡された猪口に注がれる、澄んだ其れを見ながら、ふと思った。

「面白いのか?」

何が、と云う眼を向けると、つい、と指差す先に置いたままの書物がある。

「御主があれ程熱心にしている姿など、剣を構えている時を措いて見ぬからな。で、あれは何処で?」

私物を買う、と云う事に然程興味の無い己が、自ら街へ降り、書物を買ってくる様は
己でも想像し難いものがある。先程の珍しい物でも見る此の男の眼は、成る程そう云う事か、と
一人で納得していると、男は、其の様を怪訝そうな眼で見ながら、空に為った猪口に自ら酒を注いだ。

「若が、要らぬ、と。」


昼間、御前の所用を片付け戻る途中、廊下を下女達が忙しく走り回っていた。
手には大量の書物が重そうに抱えられており、往く先には山の様な書物が崩れんばかりに積み上げられていた。
其の様子を、側女達と然も面倒臭そうに眺めている男が、こちらに気付き手を振ってきた。

「やあ、キュウゾウ。父上の御遣いかい?大変だねー。」

其の声には表面上は兎も角、此方を気遣う響きは無く、社交辞令だ、と言わんばかりであった。
此の男に嫌われているのは知っていたが、どうでもよい事だと、書物の山を見遣る。

「此れかい?父上が商人には、世を渡って往く為に豊富な知識も必要だ、って僕にくれた物だよ。
 でも、此れ場所ばかり取って邪魔なんだよねー。内容全部覚えてるし、要らないから捨てるんだ。」

場所なぞ、有っても無くても新しく造るだろう、と思ったが、此方には関係無いので黙っていた。
埃を被り、色も褪せてしまっている大量の書物を、どうせなら庭でぱーっと派手に燃やしちゃおうか、と
一人楽しげに騒いでいる男を尻目に、更にうず高く積まれて往く書物を見た。
古書から、金箔や銀箔で美しく飾られたもの、此れは此の男の趣味だろうが、春画集等もある。
過去の歴史、様々な地域の民族や文化、戦の記録、図鑑、哲学書、文学、蘭学、天文学――
差し詰め、知識の屍骸と云った所なのだろう。
中には収集家達が咽から手を出してでも欲しがる様な物もあるだろうに、此れ等は此の男の気紛れで
只の灰に変わるのだ。
併し、口を出す必要も、気も無い。此方に害が及ばぬ事なら関係は無い。
戻らねば、と其の場を立ち去るべく身体を動かそうとした時、たった今まで此方の事など忘れていた、と云う様に
あー、キュウゾウ、と男が声を掛けてきた。

「此れ、欲しいならあげるよー。好きなだけ持ってっちゃって。此れなんかどう?お薦めだよー。」

結構、と断ろうとしたが、ふと、思い留まった。
男が両手で開いている派手な春画集はどうでもよいが、何となしに書物の山の上で眼を彷徨わせる。
今思えば、何故其の侭其の場を去らなかったのか、其れは解らないが、
眼に留まった一冊を手に取り、礼もせず其の場を後にした。


「成る程な。其れで書物、か。」

成り行きを簡潔に説明すると、納得したように頷き、猪口を傍らに置くと腰を上げて部屋の中へと戻っていった。
再び戻ってきた男の手には、其の書物が在った。裏表、と手を捻り確かめながら腰を下ろす。
其れは随分と色褪せてはいるが、群青色の表紙に四つ目綴じの簡素な物で、表紙には何も書かれてはいない。
表紙を捲り、軽く内容に眼を通す。そして、又も意外だ、と云う目で此方を見ながら云った。

「これは句集、いや、詩集か?」

そうだ、と頷くと、突然口を押さえ、肩を震わせた。笑っているのだ。
何が其れ程面白いのか、と不思議に思いながら其の様を見ていると、
すまんすまん、と涙目に為りながら謝り、併しまだ足りぬ、とばかりに抑えきれぬ笑いを堪えている。
一頻りそうして笑い続け、やっと一息つくと閉じていた書物を開き、再び読み出した。
男と己の間に置いてある徳利を手に取り、猪口に注ぐ。口を付けると、むう、と唸るような声が聞こえてきた。
隣を見遣ると、何とも云えないと云う様な顔をしている。必死に何やら思案している様だが、
気にせず飲む。ちりり、と咽を焼き、鼻腔を撫でるその感覚を好ましいと思える様になったのは、
己も年を取ったと云う事なのだろう。

「何、なのだろうな、どの様に表現してよいものか解らぬ。」

はあ、と溜息を付き云う男を見遣れば、文字を見たまま矢張り何とも云えぬと、微かに眉根を歪めている。

「何やら、咽元に纏わりつくような、陰湿、と云うか、いっそ憎悪の様なものすら感じるのだが…。」

気持ちの悪いものでも見る様に、然し更に眼で文字を追うものの、直に表紙を閉じてしまった。
本を持つ手を猪口に変え、残っていた酒を一気に煽る。相当に否なものだったのだろうか。

「変わっているとは思っていたが、此れを熱心に熟読出来る御主は、矢張り相当に変わっているのだろうな。」

そう云うと、書物の事等忘れたかの様に、月見酒を再開した。

憎悪、と男は云った。然し、自分は寧ろ、其の文字の節々から滲み出る強烈な意思にこそ、惹かれた。
抽象的な表現、幻想的で、情景が瞼の裏に浮び、感覚其の物に直接叩き付けられ、紡がれる言葉の、其の力強さ。
其れでいて、曙を待つ空の静けさを纏い、朗々と詠いあげる様に連なる言の葉。
まるで、辞世の句の様だ。美しい、と云っても良いのだろう。
文字の一つ一つに、書いた者の感情が塗り込まれ
文字を追う毎に、脳髄に絡み付く様に染み渡り、読む者を惹き付ける。
そんな魅力が此の書物には有った。

然し、男は其れが解らない、と云った。其れは、恐らく男にとっては良い事なのだろう。
自分は、今でもあの空を忘れられずにいる。
だが、此処の緩やかな生活の中で、忘れ始めているのは、否定しようの無い事実なのだと思う。
何時如何なる時も、生と死が此の背に友の様に在って、其れが如実に感じられた、あの空を。
死を避けられぬのは、赤子であろうと、女であろうと、今此の時の自分ですら
其れは変わらぬと云うのに、地に堕ちた己には、まるで実感を伴わぬ、霞の向こうの事の様に思えてならない。
無駄に死ぬ心算は無い。死んでも構わないとも思わない。
然し、今の自分に、嘗ての自分が描いた様に、納得して死ぬ事が出来るのか、自信は無かった。
此の男は、忘れる事を受け入れた。そう云う事なのだろう。
此れから世は、確実に戦を忘れていく。少しずつ、だが確固たる意思を持って平穏へと。
そんな世で生き抜く為には、其れを甘受するしかないのだ。納得出来ようと、出来まいと。
いつか、自分も忘れてしまうのだろうか。今一度この詩集を読んだ時、
此の文字の力強さを、恐ろしいと思うのだろうか。

「何を考えている?酒が進んでおらぬぞ?」

はた、と現実へ立ち戻れば、男はほろ酔い加減で楽しそうに月を見上げていた。
先程より幾らか位置を変えた月が、見下ろしている。嘲笑う様に、然し、唯其処に在った。

「また何やら小難しく考えておるのだろう。御主は語らぬ代わりに、自身に語り過ぎだ。」

僅かに、見開かれた眼で男を見遣る。驚いた。
何を考えているか、解らない。感覚のみで生きている様にすら見える。
其の様に云われる事は多々あるが、心中を覗き見られた様で少し居心地が悪い。
此方の視線に気付き、ふっ、と男が笑う。

「長い付き合いだからな。まあ、御主の考えている事など、理解出来ぬ方が良いのであろうが。」

月を見上げ、そう云ってまた笑う。今宵は、美しい夜だ。酒も入り、男も饒舌になっている。
普段は此方を軽く罵り、仕事を伝え、時折語る其の口から、言葉が滑り落ちてくる。

「良いではないか。何であれ、我等は生き残り、そして今生きている。此の先もそうして生きて往くのだ。
 難しく考える必要など無い。剣を捨てる事等出来ぬが、それでも生きていれば、好い方向へ進んで往くだろう。
 そして何時かは、此れもまた己の人生、そう思える様になるさ。多分な。」

月色の硝子に、丸い月が嵌め込まれている。其の奥に、嘗て戦場に在った眼が、穏やかに細められ、
其の光を映している。

明日になれば、此の瞳は元の戦場を生きた者の眼へと戻り、其の口で此方を罵るのだろう。
そうしてまた同じ日々が続く。あの空へ、此の心を置き去りにした侭。

だが、何故だろうか。
少し、僅かな違いなのだろう。けれど、心が軽くなった様な、そんな気がする。

其れでも良いのだと、そう云って笑う男が、傍らに居る。これからも。


「ヒョーゴ。」

「ん?」

「注がせろ。」

「お、すまんな。」


月の宴は、静かに続く。















何故、今此の事を思い出すのだろう。
全身から噴出す血と共に、命が抜け出ていく様だ。
思い出す時間等、今の己には無い筈だろうに、
瞼の裏に映るのは、あの月の美しい夜と
耳に木霊する、御主の声
此れが走馬灯、と云うものだろうか。

嗚呼、終わる。終わってしまう。
彼の男との決着も付けぬまま。

其の為だけに、あの憐れで優しい友すら斬って来たと云うのに。
こうして終わって往くのか。俺は。

死にたくない

今は、まだ

死ねない

決着を付けよう

野伏りを全て斬って

何の気兼ねも無く

唯、純粋に


そうすればきっと云える

仮令、斬られたとしても


此れもまた己の人生だ、と




そうしたら、また


御主は笑ってくれるだろうか?















おまけ

あとがき

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