過去捏造。手錠生活中です。









幼い頃、昼間の明るさが不思議でならなかった。
幼い、と言っても、日常会話に必要な幾つかの言葉と、そうでない言葉の区別すら
あまり付いていない、自我の根底が形成されるまでの、ほんの僅かな間であったのが。
日が沈み、辺りを闇が支配する時間は、まだある程度理解の範疇であったのだが、
かと言って、完全に理解していた訳では無い。月と星とが灯す明かりに浮かび上がる
黒い街並みや、陰鬱な常夜灯の人工的な光に、唯々違和感を覚えていた。
貪欲に知識を吸収する、乾いたスポンジの様な脳に溜められて行く言葉を駆使し、
それでも拙い文章で、何故昼は明るく、夜は暗いのか、と聞いた事がある。
私は常ならばそうした質問をすべき対象、親と言う物を知らなかったので
幼少期の私を作り上げた環境、その中心に居た人物、言うなれば親代わりを務めていた大人に
その疑問をぶつけた。その大人は、一瞬きょとん、とした顔を見せ、此方を向いて微笑むと
貴方が今立っている地面は、平らで真直ぐな様に見えるけれど、本当は丸くて、
ゆっくり、ゆっくり、気付かないくらいゆっくりと、回っているのだよ、と言った。
暖かな日差しを齎す太陽は、空の端から端へと動いている様に見えるが、
地面、地球が回っていて、太陽が空に無ければ暗くなり、有れば明るい昼になる、と
身振り手振り、幼い私にも理解出来る様に、より単純に単純に、と言葉を選ぶ
その大人の言葉を、私は矢張り理解出来なかった。いや、理解はしていた。
つまりは私をある一点に据えて、自転している地球の上から見ると、
私の居る場所に太陽の光が射している時間は、私と真逆の位置に居る人間には夜が
訪れているのだ、と、大人の説明の終わる前には完全に理解し、記憶した。
理解はしたが、今程には言葉を知らなかったので、イメージとしてだが。
しかし、大人の説明する世界の理は、私の疑問を解決する物では無かった。
私の知る世界、とは赤の世界。薄闇の世界に仄かに透ける赤。
声を聞いた。暖かい声。優しい声。それは時折沈み、微かな嗚咽を伴って響いた。
思えば、それは私が持つ唯一の、母の記憶なのだろう。
何故私には両親が居ないのか、疑問に思う事はあったが、深く悩む事は無かった。
死んだにせよ、捨てられたにせよ、私が母の中に居た記憶の有る限りは
繋がりが途絶えた訳では無いと、そう思えた。
昼間の抜ける様な青空も、真夜中の静けさも、確かに美しく、正しく自分を構築する
世界の一端ではあったが、どこを探しても、どれ程耳を澄ましても、
今いるこの場所には、あの赤い闇に落ちる声は無いのだ、と
自ら理解するのにそれ程時間は掛からなかった。
その頃には、既に言葉は完全に習得し、同時に文字の法則も理解していた私は
書物を読み漁り、脳細胞を活性化し、大人の説明する昼と夜との違いを
学術的な観点から説明する事すら容易な物になっていた。
大人達はそんな私の早熟を見て取り、初めこそ関心を示していたが
いつからか、それは畏怖や差別と為り、ワタリと出会うまでの私は大抵いつも独りだった。
それを不快だと思った事は無い。彼等が私を相容れぬ者として見る様に
私も彼等を理解しようとはしなかった。出来るとも思っていなかった。
彼等は人間以外の何かを見る様な目で私を見ていた。そして、私はそんな周囲の目を
取るに足らぬ物として受け流していた。どうでもいい事だった。
彼等が私をどう捉え様と、生物学的に見て私は確かに人間であり、
思考し行動に移す為の肉体も精神も有しているのだから、否定する要素が無い。
私にとっての理解者とは、私自身であり、それ故に私は誰よりも独りだった。
それでも、私の頭の中にはあの穏やかな赤の世界が確かな記憶として残り、
多少掠れはしているものの、今もそれは変らない。










ぽちゃり、と音を立てて黒い液体の底へと角砂糖が吸い込まれて行く。
沈む僅かな間にも崩れて行く歪んだ正方形を、スプーンで更に砕き、
原型を無くした砂糖の粒が程良く馴染んだのを確認し、口へと運ぶ。
口の中に広がる甘い香りを十分に楽しんで、カップを置いた。
キラを追う為だけに作られた空間は、広い様でいて思いの他狭く感じる。
それは私の思考が反映されているだけの認識であり、今の捜査本部の人数を
鑑みれば、広過ぎると言ってもいい空間であったが、強ち間違ってもいないと思う。
どれ程の面積があろうとも、実際に使用するのはその一部分であり、
大抵私は膝を抱えて座っているし、立っていても天井から私の頭の少し上辺りまでの空間は
巨大なスクリーンに映像を映し出すには適しているが、意味無く飛び上がったり
天井からぶら下ったりしない限りは、空気中を漂う塵や行き交う電磁波の支配する空間であり
私自身は目の前のPCと、スクリーンと電話、あと幾つかの機器が有れば
ここでの作業に支障は無いので、事実私の行動範囲は狭い。
捜査の中心であるこの部屋以外に、私が個人的な理由で使用する部屋もあるが、
暇を持て余し、何となくビルを散策する様な時間は無いので、
私を含め、捜査本部の全員が一度も入った事の無い部屋も多々存在する。
必要性の無い場所を廃除して行けば、最終的に残る空間は限られて来るので
矢張りここは酷く狭い空間と言えるのだろう。
世間の常識から掛け離れた場。情報の終着点。巨大な箱の中に集約されて行く
膨大な知識の淀みが生んだ閉塞感は、私にとっては馴染みの深い物であり
世の中の目まぐるしさとは一線を引いた静けさが、私を心地の良い緊張感で満たしている。
脳の奥底に染み渡る糖分によって齎される知力の安息と、それらが混ざり合う事で
私の頭脳は深く深く潜水して行く。


言葉の糸を紡ぎ、束ね、織り上げて、霧散する。
微粒子の一欠けらを抓まんで、
気泡に乗せて遥かな水面へと送り出す。
ゆっくりと浮上する間に、
無数の気泡は分裂し、結合され、
振動し揺らめいて、
表出するその姿は、


此方を振り向いて、艶麗と笑う。











かたかた、と不規則なリズムが部屋全体に反響し、耳を振るわせる。
機械の働く低い唸りが腹の奥に響く。目の前には白い背景に燦然と並ぶ黒い文字。
微睡にも近い思考の潜行から抜け出し、カップの横に置いたスプーンを手に取ると、
新たに投下した角砂糖を潰し、先程よりも幾らか甘みを増したコーヒーを啜る事で、現実を実感する。

かたかた かたかた

音の発生源に目を向けると、熱心にPCに向かう横顔が淡い光に照らされている。
濡れた眼球に反射する白い光が、妙に現実的で、虚像の様に見えた。
明るい栗色の髪の毛に映える、白いシャツの袖に覗く細い腕から歪に伸びる金属の鎖が、
キーボードの上を蠢く掌の動きに合わせて、微かに金属的な音を発している。
夜神月。
キラである可能性の最も高い人物。
私の中の何かが、一番反応を示した人物。
そして、恐らくその反応の根源を、失った人物。
私がずっと追い求めて来たのが、彼であるのは間違い無い。
全ての可能性を熟考し、照らし合わせ、導き出した答えは彼を示していた。
だからこそ、私は彼と接触した。最も近しい位置から探りを入れ、確信する為に。
その確信は、確固たる物となった。
なった、筈だった。

頬の内側で爆ぜた、熱を思い出す。
虚構を映していた彼の瞳に宿る、炎の様な鮮やかな色。
真直ぐに此方を射る、強い意志。自我。
つい先頃までの彼とは、明らかに違うその色彩に、私は戸惑いを覚えた。
これは一体誰なのだろう。
あの冷ややかで、無機質で、能面の穴から覗く様な目はどこに行った。
彼を変えたのは一体何だ。何を無くして来た。
私を捉えて離さない、深い闇を覗かせる瞳はどこに消えた。

いや、違う。

無くしたのでは無い。戻って来たのだ。
再び手にしたのだ。
恐らく、私が知る以前の彼は、こんな瞳をしていたのだろう。
幼い頃から警察官である父親の背を見て育った彼が
善と悪、正義と秩序、それらを見据え、己の強さを以て非道を断罪する力を
知らず知らずの内に、いや、寧ろ望んで形成されつつある自我の根底に刷り込んで行った事は
過去の経歴、素行、周囲の人間との関係性、
そして実際に対峙した印象等から鑑みれば用意に想像が付く。
悪は許してはならない。正しく、優しい者が虐げられるを良しとしてはならない。
弱きを助け、守る事が出来るだけの力を持たなくてはならない。
その為には、自らの力を極限まで高め、強く在らねばならない。
彼の瞳に宿る光は、そうした意思の表れなのだろう。
だが、それは強固な意志と引き換えに、均衡を持たぬ危うさを生む。
たった一度の衝撃に耐えうる力を持たない、朧げな強さだ。
そんな、己の正しさを確信している子供の様な男が、
罪を犯したら、どうなる。

キラが一体どんな方法で殺人を行っているのか、それはまだ分からない。
たとえ念力の様な、非科学的な物だとしても、
誰かを殺める為の力を行使するには人の意思が必要不可欠になる。
夜神月がキラとしての力を持ち、それを使う為に自らの意思で行動し、実行したのだとすれば
それは紛う事無き、殺人。
一般的な認識より、遥かに高い位置から正義、と言う物を見続けて来た夜神月にとって
命を奪うと言う行為は、悪以外の何物でも無い、最も忌むべき行為であった事だろう。
たとえどんな理由があろうとも、誰かを虐げ、ましてや殺める事等、決してあってはならない。
人は、正しく生きなければならない。悪人は死んだ方が良い。
だが、罪を悔いる時間を奪う事も、罪ではないか。
そんな行為を、己の意思で行った。
あるいは、最初は偶然だったのかも知れない。本当に死を与える事等、出来る筈も無いと
軽い気持ちから生まれた行動だったのかも知れない。
だが、その軽さが後に途方も無い重圧と為って彼を押し潰した。

殺した。
殺してしまった。
死なせた。
死なせた。
死なせた。
僕が。

初めから一方向に偏っていた意思は、いとも簡単に崩れただろう。
奈落の底で轟音となって響き、彼の秩序は崩壊した。

そして、彼はキラとなる道を選んだ。
いや、選ばざるを得なかったのだろう。
それは防衛本能。精神の崩壊を食い止め、生きる為の最後の選択。
彼が生きる事を選ぶには、キラになるしか無かった。

僕は彼等を死なせたけれど、それは真に悪と言えるだろうか。
彼らは悪。世の全ての人間は、彼等を悪、と呼ぶじゃないか。
自分は正しい、悪は憎むべき敵、敵に与えられるべきは、死。
殺さなくてはならない。無くさなければならない。
悪の無い世界は、誰もが理想とする世界じゃないか。
美しく、清らかな空気に満たされた世界を、誰もが望んでいるじゃないか。
僕なら出来る。僕にしか出来ない。僕がやらなくてはならない。

僕なら、出来る。ならば、僕は、光り輝く世界を見下ろす、神になろう。


彼は気付いていたのだろうか。自分を正当化する事で、目の前の現実から逃げた事に。
自分自身の罪から、目を背けた事に。
自らの手を汚す事無く行われる殺人は、罪の意識を正へと転換する際に生じる抵抗力を
殆ど持っていなかっただろう。
こんなにも容易く、人は自らの安息を選べる。無意識の内に、
進む先を限定してしまっている事にも気付かない。
けれど、逃げた先に残されたのが、自らを神にまで追い詰める道でしか無かったのであれば。



嗚呼、それは、痛い



彼の心は果てし無く、広く広く、無限の荒涼を臨む。
顔を上げ、目を見開き、前を見据え続けるしか無い。
そうする事でしか、生きられない。
全身から吹き出す血にすら気付けない程に、唯、前を。
一度でも振り向けば、そこには自らの歩んだ道を染め上げる赤しかないのだから。


これは私の勝手な想像であり、或いは初めから彼の中には闇が巣食っていて
それを隠し続けて来ただけなのかもしれない。
キラの力を得る事で、それを吐き出す場を得ただけなのかもしれない。
けれど、これは核心を突いているのではないか、と思える。
彼は、私と似ているから。だから、分かる。
もし、私の想像の本の一部でも、嘗ての彼の内面を覗き見る事が出来ているのであれば、
今、私の横に座っている人物は、振り向いた先に広がる世界を認識出来ない。
彼は目を失った。自らの意思で捨てた。私の横に、立つ為に。
いや、彼ならば気付かれない様にそっとポケットの内側に隠しているのかもしれない。

いずれ、私を殺す為に必要なのだから。

その時が来れば、彼は迷う事無くその目をもう一度眼窩に押し込むだろう。
その為に、盲目の心で私の傍にいる。
彼のほくそ笑む顔が目に浮ぶ様だ。そして、私はその瞬間を、待ち望んでいる。

彼の視界に光が戻った瞬間、その瞬間を見逃さない。
そして、無理矢理にでも振り向かせてやる。認識させてやる。
己が罪の軌跡を、自らの血で描いた真紅の道筋を。

私が彼の為にしてやれる事と言えば、それくらいの事だ。



私に出来るだろうか。
人間同士の繋がりを、自ら拒絶して来た自分に、出来るのだろうか。

繋がり

以前彼に言った、友達、と言う言葉を思い出す。
その時、私は彼を友達だとは微塵も思っていなかった。
正直に言えば、今も思ってはいない。
勿論、彼もそうだろう。最初から、私達は相容れぬ者同士、当然だ。
私達は似ているから。似過ぎているから、友達にはなれない。

それでも構わない。私は彼を振り向かせる。殴ってでも、振り向かせる。

もしかしたら、その時初めて、私達は本当の友達になれるのかもしれない。
私達は誰よりも似ていて、掛け離れていて、相反する者で、

そしてきっと、誰よりも友達、なのだから。





母の温もり。赤い世界。安らかな記憶。人間の、記憶。
あの優しい思い出があれば、私は生きて行ける。
人間を、他人を、世界を、愛しいと思っていられる。
彼が否定した世界を、薄汚く、混沌とし、
生きる事、それ自体に痛みを伴う世界を
それでも生きて行ける。歩いて行ける。
拒絶し続けて来た世界との最後の繋がりを、断たない為に、
私は彼と向き合わなければならない。

早く戻って来い。

自らの罪を後悔して、泣いて、喚いて、這い蹲って、
苦しんで、苦しんで、苦しんで、死ねばいい。


せめて、最期の瞬間くらいは、傍にいてやるから。






「月くんは後悔をする事、をどう思いますか?」
















あとがき


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