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私の輝ける闇











光は、闇の中でこそ光り輝く

人が「希望」というものを表す時、このような言葉を使うようになったのは
何時からなのだろう。
暗く、出口の見えない闇。体の表皮に纏わり付く重油の様な生温い空気と重圧の中、そんな事を考えた。
光と闇とは表裏一体だ。光が存在する場所には必ず闇が降り、そしてまた逆も然り。
恐らく、ここで言う処の光とは、太陽の様に全てに照り、影を落とすものではなく
手元、若しくは裡から灯る光。己を中心に辺りを照らす光の事だ。
この言葉を生み出した人物は、仮令小さな光でも、暗闇の中では辺りを照らし、往く先を示すのに
十分な明りになる、とそんな至極当然の、道を失いかけた者にとっては縋るに値する
藁にも似たそれを、希望に喩えたのだろう。
希望
希を望む事。
願い求め、そうありたいと思う心。救われたいという願望の現われだ。
光が照らす先に待つ絶望に思い至らない、否だからこその光、なのだろう。
己が放つ僅かな光が照らし出すもので、また深みに落ちる。現実に突き落とされても尚、歩き出す力を持った者で無くば
光は意味を成さず、裡にある事にすら気付く事も無く、生を終える事になるだろう。
なれば、私も其処まで堕ちれば己が裡に光を見出すことが出来るのだろうか。
今居る此処は真の闇に非ず、未だ私のこの両の眼は照り輝く光を捉えている。
進む事すらままならぬ、果ても知れぬこの暗闇すら、私には眩しく、霞んで見えている。








「気が付いた様で。あたしが分かりますか?」

揺れる視界が鮮やかさを取り戻すに連れ、天井の木目と眼に掛かる髪の毛の間に、
見知った三本髷を捉えた。

「……シチさん。」
「受け答えが出来れば大丈夫ですな。丸2日も寝てたんですぜ。」

言われて、神無村で野伏りを迎え撃ち、その最中命を落としたゴロベエを村の墓地の先にある高台に埋めてからの
記憶が無い事に思い至った。

「…面目無いです。」
「何言ってんでげすか?殆ど不眠不休の上にその怪我で墓の穴掘りまで手伝って、疲労でこのまま
 ぽっくり逝っちまうんじゃねーかってんで、皆気が気じゃあ無かったんですよ?」

眉根を寄せ、大袈裟に溜息を付きながら急須に湯を注ぐシチロージに、苦笑する事しか出来なかった。
視線だけを窓の外に移すと、どうやら未の刻辺りだと言うことが分かった。
微かに童達の笑い合う声と男衆が何やら話しながら忙しく動き回っている様子が聞こえる。

「百姓とは逞しいものですな。野伏りと戦してまだ日も浅いと言うのに、燃えた家の事やら米の事やらで走り回ってますよ。」

その様子に気付いてシチロージも窓に眼を向ける。穏やかに細められた眼が午後の光に透けて
ヘイハチには妙に眩しく映った。その光を追い払うかのように瞼を閉じ、
腕を着いて起き上がろうとすると、慌ててシチロージが肩を抑えた。

「ちょいとヘイさん、何やってんですか!まだ傷が塞がった訳じゃあないんですよ?!」
「しかし、私ばかりが休んでいる訳にもいかないでしょう。私にも何か出来る事が、」
「あーー!!ヘイさん起きたですか!!」

唐突に響いた明るく弾む様な声に眼を遣ると、握り飯が山の様に載った盆を掲げ持つ様にしたコマチとオカラが
跳ねる様に戸口から入ってくる処だった。
小さな履物を足で器用に脱ぎ捨てると、ころころと笑いながらシチロージの横に立ち盆を差し出してきた。

「お米、持ってきたですよ!ヘイさんずーっと寝てたからお腹空いてるです。特別にふたっつあげるです!」

にっと歯を見せて弾ける様に笑うコマチの笑顔がすうっと、胸に染み込んで行く。
思わず笑い返したが、いつもの様に笑えているか不安だった。

「お心遣い有難う御座います。でも一つでいいですよ。」
「えー!何でですか?」

米好きヘイさんが握り飯を断った事に驚きを隠せない様子のコマチに、どうしたものかと思案していると
オカラの差し出す握り飯を受け取り、頬を染めるオカラに苦笑いを返してシチロージが言った。

「ずっと何も入れていない腹で無理して食べると、反って胃に悪いんでげすよ。
 そうだ、この握り飯、御粥にでもしてきて貰ってくれませんかね?ついでに皆にヘイさんが起きた事、
 伝えてくれると助かるんですが。」
「わかったです!まかせるです!」

元気良く手を上げると、また跳ねる様に家を飛び出していった。途中一度振り返ると、大きく手を振って笑い、
秋の風をくるくるとその身に巻き上げ駆けていった。
振り替えした手を布団の上に落とすと、小さく息を吐き天井に眼を遣った。

「お。起きるのは諦めましたか。」
「折角の御粥を無駄には出来ませんからね。」

その心算でコマチ殿に頼んだのでしょうに、と眉根を寄せると
してやったり、と言う様に笑って握り飯を頬張った。
炊き立ての米の何とも言えぬ香りに、猛烈な空腹を覚えたが
同時に傷の痛みも思い出し、シチロージの口の端に付いた米粒をうらめしいと思いながら眼を閉じた。







前へ、前へと進める足を無数の黒い手が絡め取り、進ませまいとしているかの様に足が重い。
立ち止まる訳にはゆかぬと云うのに、其の手は爪を立て、肉を裂く音すら耳の奥に響き、足を地に縫いつけようとする。
闇を振り払えば先は見通せるのだろう。それは存外に容易い様に思う。方法も本当は知っている。だが、其れと同時に足を失う。
そんな確信にも似た思いが、泥の沼の底を往く足をそれでも前へと押し出している。
暗闇を往く足から白い影が生えている。己が姿を写す其れは、白色であるが故にか、深淵を思わせる程に暗い。
其れは戯れに口を開き、白濁した霧の様な毒を吐く。

『何処へ往く?』

「何処へでも。」

『何故往く?』

「往かねばならぬ故。」

『何処まで往く?』

「この足の往ける処まで。」

無意味な問答は続く。

『足を無くせば何とする?』

「腕で這ってでも往きます。」

『腕を無くせば何とする?』

「この身が在れば往けます。」


『其処までして何に成る。』


無意味な問答は続く。






キクチヨとカツシロウがキララ達と連れ立って村を出た。
傷も大分癒え、歩き回れる様に成ってからは、復興を始めた村の為に彼是指示を出し、少しでも早く、皆に元の生活に
戻れる様にと、出来うる限りの助力をしようと決めた。シチロージもカンベエの指示を守り、村に留まるつもりのようだった。
彼らがカンベエを追うと決めたと知った時、ヘイハチは止める気にはなれなかった。
何時だって、彼らはカンベエを追い続けてきた。村を野伏りから救う為、農民達を守る為、そう言いながら
その実、其の眼はカンベエの背を見ていたのだから。あの男の中に己の求める物を、彼らは確かに見出してしまっていた。
其れがヘイハチには眩しく見えたのだ。求める気持ちを抑えきれず、走り出せる彼らが。
彼らのその直向さを羨ましいと思い、その反面望んではいけないとも思った。
ヘイハチの求めるものが、其の先にあるのか確信が持てなかったのだ。
私の殺めた者達の顔が瞼の裏にちらつき、知らず知らずの裡に何事にも慎重にならざるを得なかった。
ふと、ヘイハチの視線の隅に動くものを捉えた。リキチだ。
旅支度を整え、腕には棒状の物が包れた風呂敷包みを抱えている。一目で其れが刀だと分かった。
リキチの傷は、ヘイハチと違い骨だ。無闇矢鱈と動き回っては治りが遅くなるばかりだと言うのに、
杖を突き、一歩一歩と、歩みを進める。其の足は村の高台へ向いている。ゴロベエの眠る高台だ。
空に近いあの場所は、空を望み、地に在って、生を繋ぐために芸事に身を窶していたゴロベエに対する
手向けの様なものだった。墓穴を掘りながら、嗚呼、私も何れこうなる。
肉の塊になって朽ちる。そう思っていた。そして、出来る事なら私も此処で、此の場所で朽ちたい、と。
腕を組み、壁に背を預けているシチロージもリキチの様子に気付いているらしく、
木々の中に消えていく背をじっと見遣っている。
シチロージはリキチを止めるのだろう。其れはそうだ。リキチが女房の元へ往く気なのは見れば解る。
キクチヨ達が村を出た時から、こうなるであろう事は予想出来ていた。
己の恐怖心に勝てず、女房を野伏りの元へと往かせてしまった。其の自責の念に囚われてしまっているこの男は
侍を雇う為に街へ往く者を募った際、一番に名乗りを上げたと聞いた。
そして我等と共に戦場に立った。弓を引いた。戦う事を知った。己も戦えるのだ、と。
放って置けば、折れた肋骨が胸を突き破っても、先へ進もうとするようにさえ見えた。
然し、ヘイハチは歩みを止めた。リキチの頬の汗の光すらも、彼の女房への想いが凝り固まった物の様に思えて、
尊く、近付き難く、酷く眼を霞ませた。眩しさで、眼を開けていられない。
思わず、ヘイハチは眼を逸らした。

嗚呼、自分には彼を止める事など出来ない。止める資格など、在りはしない。

頭の中に、白くはためく後姿が過ぎる。
無性に、あの空を見続ける事しか知らない瞳に会いたくなった。







分かっている。私は羽虫だ。火に縋り、身を焼かれる唯の愚かな羽虫なのだ。
あの時もそうだ。己の力を過信し、認められぬ事に苛立ち、目の前に差し出された餌に喰らい付いた。
己が身を焼く炎が、同胞達に燃え移っている事にすら気付かずに。
今もそうだ。私は此れからこの人に燃えるこの身を押し付けようとしている。
痛みを、苦しみを、己が裡に巣食う闇を。
そうする事で私は更に苦しみ、光などもう見る事も叶わぬ程に堕ちたとしても。

其れでも、私は期待しているのだ。此の眼などもう見えずともよい。
此の人は、きっと受け止めてくれる。受け入れてくれる。其の上で盲いた私を導いてくれる。
私以上に暗い闇の底を生きて来た彼なら。其れでも信念を枉げず、己が道を歩き続けてきた彼なら。
無様だと、不甲斐無いと嗤われても構わない。私は羽虫だ。今更ではないか。

『ならば嗤ってやろう。』

嘲笑が暗闇の隅々まで行き渡り、反響し、耳の奥を振るわせる。

『お前は救われたいだけだ。己が罪すら忘れ、又繰り返す。』

「分かっている。」

『分かってなどいるものか。』

「分かっているさ。忘れてなどいない。私は、罪人だ。」

『ならば何故、縋る。墓まで持ってゆくと、背負い続けると、誓ったのではなかったのか?』


違う。其れは言い訳だ。
私は、赦されたいのだ。
罪の重さから逃れたいだけだ。押し付けたいだけだ。
死に一番近い場所に向かう今になって、恐ろしくなっただけだ。
私一人で抱え続ける事に。

たった独りで、死んで往く事に。


それでも、

信じて欲しいのだ。

共に死線を渡ってきた。助け合った。喜びも、分かち合えた。
其れが私にとって、どれ程に嬉しく、どれ程に、私を救ったのか。
彼等の真直ぐな心が、存在が、死体の山の中に立ち竦むあの日の私に、向き合う力をくれた。

伝えたい。

私は今から毒を吐く。どろどろとした腐った汚物を吐く。

信じたい。

彼等と共に在る為に。









後方で銃と刀の振るわれる音が途切れることも無く響いている。
援護する、と少年は言った。其の言葉には迷いは無く、凛として私の耳の奥に届いた。
此れが私の求めていた物か。忘れ掛けていた、否、忘れようとしていた物だ。
もう二度と、手にすまいとしてきたものだ。
償いの為に、と彼等の申し出を受け入れたものと、心の何処かで思っていた。
けれど、其れは違ったのかもしれない。本当は、感じ取っていたのだ。
彼等ならば、もう一度与えてくれる。この感覚を。
与える事が出来る。全身全霊を掛けて。
信じるだけでは足りない。信じられるだけでは足りない。独りで居ては決して有得ない。

互いに信じ合える、仲間。

己の欲の為、失ったもの。
今一度、手にしたもの。

無くしたくない。心の底から、そう思った。



刹那、強烈な衝撃と熱が身体を貫いた。







笑ってしまえ、と言う人が居た。深みに堕ちて尚、力に囚われて尚、己を棄て切れずにいる少年が居た。
戦を欲し、友を斬り、唯己を在るが儘に生きる事を選んだ人が居た。
憎むべき者と同じ物に為ってでも力を欲し、其れでも笑って、守ると、生きると叫び続ける人が居た。
愛する者との穏やかな日々を棄て、修羅に戻ると決めた人が居た。
全てを受け入れ、包み、他者の痛みですら己で背負うと、其の生き様を枉げる事の出来ぬ、無骨で優しい人が居た。

そして、其の中に、私が居る。

私が、居る。

彼らは私の光であり、闇だった。私を照らし、共に暗闇へと堕ちていった。
彼らは私の裡の小さな光すら飛ばし、そして私の輝ける闇を創った。

辺りは白く、果ての見えぬ程白く、其の只中に私が立っている。此れが私の世界だ。
足から影が生えている。暗く暗く、重油を垂らした様に暗い。其れは深淵だ。

『其れで良いのか?』

影は問う。

「私の生は贖罪の為に在るのだと思っていました。否、今もそう思っています。
 此の手の動く限りは、此の足の進む限りは、私の殺めた者達の為に、と。」

白い世界を仰ぎ見た。果て等無い様な、手を伸ばせば触れられる様な、白。

「でも其れは生きる事を放棄しているのと、何も変わらないんですよね。
 殺めた者達の所為にして、己の心を殺す為に利用しているに過ぎないんだ。」

瞼を降ろす。指の動くのを確かめる。血の巡りを感じる。

「彼らの為に生きる。生きて、生きて繋いでいく。彼らの生の上に私が在るのなら
 此処で絶やしてはいけない。誰かに繋げられなければ、其れこそ、私の生に意味など無い。」

眼を開く。足元には闇がある。私の裡から生まれ、光の中でこそ形を保てる暗闇だ。

「貴方は私です。私が生きて、繋ぐ為に無くてはならない、私自身です。
 私が光を見失わない為に、歩む先を違えない為に、共に在りましょう。」

『あれ程疎んで居たと言うのに、共に在れと?』

ぐもった哂い声が響く。引き攣る様に影が揺れる。自然に笑みが零れた。

「貴方が居なければ、あの暗闇の中で己の足すら、在るのか確信が持てなかった。
 貴方は私だけれど、貴方には感謝していますよ。」

ふんっ、と愚かしい物を見る様に嗤う。だが、其れでも影は此方を見た。真直ぐに。

『ならば生きてみせろ。最期の其の瞬間迄。心の臓の止まる、其の時迄。
 己が誓いを忘れずに居られると云うのなら、共に在ってやろう。』

「ええ。」











「俺は生きる。」


















あとがき

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