唐突に、何か、得体の知れない何かが私の内側からぞろりと這い出して来る様な、
全身の皮膚の毛穴と云う毛穴が粟立つ感覚に襲われて、
云い訳もそこそこ、漫ろに部屋を飛び出して、トイレに駆け込んで吐いた。
跳ねる水音が耳障りな程はっきりと小さな個室に響き渡る。嫌な音だ、と思いながらも
顔に飛んだ水滴の感触には特に何の感慨も無く、意識は只管に胃の内容物を削ぎ落とす事に集中している。
生理的な涙で霞んだ視界に、先程食べたケーキの苺が無残な姿となって沈んでいるのが見えて、
この苺がこうして便器の底に辿り着くまでの過程には、幾日もの苦労と、幾人もの労力と、幾年月もの哀しみが有って
その幾つもの過去も、私の指の動き一つで無意味な残骸と為ってしまう。そしてそれは存外に容易く、
私は私の行いに何の価値も意味も理由も見出す事が出来ないのだ。
それら幾つもの過去を棒の様に振って捨ててしまえる程に、私の存在とは尊いのだろうか。答えは、否。
既に吐き出せる物は全て吐き出して、それでもまだ、まだ足りないと、
咽喉の奥底まで辿り着いて蠢く己の指の情景を、奇妙に冷めた頭で思い描いていた。

指の先には青い空と白い雲。爽やかな風が吹き抜けて、木漏れ日が慈しみを込めて降り注ぐ。
見下ろせば人々の営みが見える。街のそこかしこに過去があり、誰も彼もが忘却に甘んじて生きている。
見慣れた景色の中で息をして、定期的に配信される鮮やかな嘘に踊らされて、
大衆である事を容認しながら、個としての人格を求め、
唯一無二の個でありたいと願いながら、その他大勢の中で安心して何となく死の影に怯えている。
そうしていつかは子を成し、孫を抱きながら、ああ、幸せだ、と微笑む未来に落ち着くのだ。
緩やかに過ぎ去る時間。穏やかな日常。なんと素晴らしい人生。

そこまで想像した所で、逆流してきた胃酸が喉を焼いた。
何の事は無い、単調な日々の中に微かな刺激を求めているだけだ。
自らの行いに、ああ、何と無駄な事を、と涙を流す己自身への陶酔に近いものでしかない。
それこそ無意味で無思慮な自分以外の全てへの冒涜であり、罪とも云える。
では私は罪人か。それも、否。私は私の行いが罪であるのだと自覚している。
その時点、その瞬間から、私の行いは罪とも、罰とも、それ以外の何かでも無く、
今私が行っている行為、唯それだけの事象と成り果てるのだ。
酷く馬鹿げている。そう、馬鹿げているのだ、こんな事は。
醒め遣らぬ焦燥を持て余し、口の中に突き入れた指もそのままに便座に凭れ掛った。
肘まで垂れた唾液と胃液の感触が不快であったが、今直ぐ動く気にも為れず
ぼんやりと空間と空間の間を目で追っていた。其処に、何かとても素敵なものでも有りはしないか、
この状況を打開する事の出来る程強烈で、甘美な何かが有りはしないか、探してみた所で
そんなものは有りはしないのだと知りながら、彷徨い続ける視線の先には果てし無い虚無が有った。
日々を過ごす、と云う事は、味付けの濃い食事を取る事に似ているのだと思った。
初めて口にした時は、その余りの濃さに驚き、鬱陶しい程に舌の上を暴れ回る味覚が心地良いものだが、
それも最初の一度だけで、何度も何度も口にすれば、何れは日々の一部へと融けてしまう。
喜びも、哀しみも、痛みも、然うである様に、いとも簡単に喉を擦り抜けて行く。
更なる高みを目指すには、きっと些細な事なのだろう。
その為に、忘れてしまえる程度には、きっと、些細な事なのだ。そう、きっと。
刺激を求める衝動には際限が無い。まるで麻薬の様。魂の根源にまで根を張り生血を啜る悪夢の様。
いっそ舌を切り落とそうか。だが、歪んでいく自我と引き換えにしてまで、得たい安寧とも思わなかった。
慢性的な刺激は思考を鈍らせるもので、何時しか身じろぐ事すらままならぬ程に肥え太ろうと、
爛れた脂肪の隙間から、それでも追い求めるのはこの心の臓を貫いて尚、余り有る、何か。
生き続けるには、こうした衝動と上手く共生するか、飼い馴らすかしなければならない。
生まれながら、味の濃い食事を取り続ける事を強制されているのだ。
それが出来なければ精神を病むか、犯罪に走るか、死ぬしかない。
完全な絶食が叶ったとしても、捨て去る事等出来はしないのだ。否が応にも、世界は刺激に満ちている。

「大丈夫か?」

僅かに開いた扉の隙間から静かな声がするりと滑り込んで落ちた。
私の様子を見かねて、恐る恐ると言った風ではあるが、その声には確かに此方を案ずる響きがあった。
扉の閉まる事を妨げる様に、私の手首から生えて、じゃらりと音を立て軋む鎖が、これ程疎ましいと思った事は無い。
手首の向こうのそのまた向こうにぶら下がっている彼には、私のこの姿はどう映っているのか、
浅ましい生物の姿か、愚かで醜い罪の姿か、弱々しく蹲る唯の一人の男の姿か、声の片隅に見え隠れする感情を
読もうとすればする程、朦朧とする意識の揺らぎが邪魔をした。
出来る事なら今直ぐ手錠を外して一人きりにして欲しい、そう云い掛ける己の口を宥める事にも苦労している私に
他人の思惑など、読める筈も無いと云うのに、少しだけ、迷いが勝った様であった。
気が付けば、気だるい足で扉を押し退け鎖を引いていた。
潔癖な彼は微かに抵抗を示したが、有無を云わさぬとばかりに出来る限りの力で引いて、なるべく素早く扉を閉めると、
流石に男二人入れば狭過ぎる、何より力一杯引いたので、縺れた足が私の身体に取られたのか
虚を衝かれた焦りと驚きの声と共に此方に倒れこんで来た。
壁と便座とに手をついて、寸での所で転倒を免れはしたものの、突然の事で状況について来れない様子で、
数秒の間無理な体勢で硬直していた。
泳ぎ回る眼の向こうに不透明な世界が反射して見える。何を見ているでも無く、何を考えているでも無く、
唯、其処に在る眼玉の中にだけ、何物にも阻害されない真実がある様に思えた。
それが一体何なのか、まだ私は解らずにいる。若しか、
理解する事を、無意識の私が拒絶しているのかもしれない。
彼の存在は、一種の奇跡の様だ。奇跡とは、不確定であるからこそ不変的で美しい。
彼自身も、恐らく気付いてはいないのだろうが、その愚かなまでの一貫性が、私を生かす最後の一口になる。
だが、私がそれを口にする時、それは私と云う自己の終わりを意味しているのではないだろうか。
噛み砕かれた苺の末路を想う。私は未だ、彼以上の何かを、この世界に見出せていない。

やがて全ては過去に為る。過去は私を慰めるのだろう。
けれど、その過程の日々を生きる事は、私には耐え難い。
何故なら私は知ってしまった。もう、戻るべき道は、閉ざされている。

瞳の透過が進むに連れ、私は落胆して往く。と、同時に期待も増すのだ。
彼は私に何を齎すのだろう。


そして、


















君の退屈は私の糧。それは君も同じなのでしょう。だからこそ、君は。

2007/5/12

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